伝統宗教の衰退とスピリチュアルの台頭ーー伝統宗教の現状と可能性 (2/3ページ)
拝殿が基本的に屋外に開かれている神社と違い、寺院は建物の中に入ることが多いのだから、もう少し開放的な雰囲気は演出できないものかと思う。もちろんそのような寺もあるが、座禅教室など檀家以外の人達と関わりを持とうとする積極的な寺院は全体からすると一部であり、地方の町にポツンと点在する寺や神社はまさに風景のひとつに過ぎない。法隆寺や清水寺など誰でも知っている寺院も「観光施設」であり、風光明媚な「風景」である。あれらを仏の教えを説く「寺」だと認識している人はどれだけいるだろうか。
■伝統仏教の怠慢
最寄りの駅前では、よく新興宗教の信者が小冊子などを配布している。通行人のほとんどは無視しているにも関わらず、真夏でも真冬でも彼らはめげずに声をかけ続けている。中には世間からカルトと認定されている教団もあるが、いわゆる新興宗教のすべてがカルト教団というわけではもちろんなく、真摯な信者諸氏の布教活動には頭を下がる。しかしながら伝統仏教(本稿では仏教に絞る)がこういった活動をしているのはあまり見たことがない。彼らが境内から外には出ることは稀である。
伝統仏教が長い歴史と檀家制度に胡座をかいていることは否定できないだろう。口では寺院存続の危機を唱えていながらも、実際は目の前の檀家相手の法事が優先される。布教や教義を伝え継ぐためにも組織は必要であるし、檀家が教団を支えてきたのは事実だ。葬式仏教などと揶揄されるが、どこの寺院も経営は必死である。彼らにも生活があり、僧侶の多くは養う家族の存在がある。
しかし、その状況に甘えきってしまってよいのか。文化史家・竹下節子によると、カトリックの司祭は高齢化している上に独身の誓いをたてているので、孤独な信者との間にやさしい連帯が生まれるという。この点で、日本の僧侶で孤独な環境にいる者はほとんどいないだろう。また、これからの社会に必要であると考える、終末期患者のための仏教的ケア=ビハーラ運動の活動も停滞しているのが現状だ。孤独や死に寄り添うことのない宗教に何の意味があるだろうか。
■伝統仏教のススメ
批判が続いたが、こうした問題を指摘するのは伝統仏教に可能性があると信じる故である。