怨霊と恐れらた菅原道真が「学問の神」へと神格化。人々に祀られるようになったわけ【前編】
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菅原道真といえば、今や受験生の心の拠り所「学問の神」「天神さん」として、はば広い世代の人にその名を知られています。
しかしながら、菅原道真は死後、時の権力者たちが震え上がるほどの「怨霊」として恐れられていたのです。そして、現在でも、日本三大怨霊の一人としてその名を連ねています。
しかし、それほど恐ろしい怨霊が、なぜ学問の神・受験の神さまとして、人々から厚い信仰を集め親しまれるようになったのでしょう。
その経緯を探ってみました。
幼い頃から才能に溢れていた道真![](https://image.dailynewsonline.jp/media/9/7/975f8d6f04a442fad64e1986ec1292246e8c5cd6_w=666_hs=d4bdabcf6788d2da361fb79c3fdec0e1.jpeg)
『月輝如晴雪梅花似照星可憐金鏡転庭上玉房香』11歳で漢詩を作った道真(月岡芳年『月百姿』)
菅原道真は、幼少の頃から詩歌の才能を発揮していました。11歳で初めて漢詩を詠み、18歳で文章生(律令制の大学寮で歴史や詩文を専攻する学生)の試験にも合格。
その中から特別に優秀な2人が選出される文章得業生となり、その後は学者として最高の位・文章博士にも就きました。
40代前には、菅原家私塾の主宰となります。こうして道真は押しも押されぬ、朝廷における文人社会の中心人物となったのです。
その才能ゆえ罠に嵌められ左遷される![](https://image.dailynewsonline.jp/media/c/0/c05a03b5b1cf700abf14171348de5d7c359ab4ac_w=666_hs=5374a10fa2eb8a0d495935fd82908a13.jpeg)
文人として才能に溢れていた菅原道真は、政治の才覚にも優れ大活躍します。
もともと中級貴族の学者の家柄であった道真ですが、その才能ゆえ、時の帝・宇多天皇の寵愛を受け異例の出世を遂げたのです。
それは、当時、勢力を誇っていた藤原氏に対抗させるための、宇多天皇の手段であったともいわれています。
右大臣となった菅原道真ですが、この異例の出世が多くの貴族達の嫉妬と反発を買うこととなったのです。
その動きを、絶好の機会としたのがライバルの藤原時平。
宇多天皇の第一皇子である醍醐天皇に、「道真が謀反を企み、あなたではなく自分の義理の息子・斉世親王を天皇にしようとしている」と、根拠のないことを吹き込みました。
それを信じてしまった醍醐天皇は、無実の道真を九州の太宰府に左遷してしまうのです。
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無実でありながら、罠に嵌められ反逆罪として左遷された菅原道真。
まるで犯罪者のようなひどい扱いを受け、太宰府までの道中食料や馬などの配給は禁止。4人の子どもも流刑という手酷い仕打ちを受けたのです。
さらに、到着した太宰府では、粗末な小屋で衣食にも困る劣悪な生活を強いられました。
無念・絶望・悲しみ・都への想い……胸が塞がれるほどの、筆舌に尽くしがたい日々を過ごした菅原道真は、太宰府に赴いてから約2年後に死去します。
上記写真は、道真一行が太宰府に行く途中に通りがかった記念に建てられたもの。この当時、近くには明石の駅があり、その駅長が道真を迎えに行ったそうです。
碑に刻まれている漢詩は
「駅長無驚時変改造 一榮一落是春秋」
(駅長よ驚くことはない。季節と同じで、人生は良いときも悪いときもある)という意味合いです。
右大臣まで上り詰めた菅原道真が、藤原氏に嵌められて左遷され、一気に奈落の底に落とされてしまう……
無念や絶望の思いを抱えながらも、その姿はあくまでも凜然としていたと伝わります。
道真はどのような想いでこの句を詠んだのでしょうか。
道真の亡き後、陥れた貴族が次々と謎の死を遂げる![](https://image.dailynewsonline.jp/media/3/4/343820912f807aad0c91e51387717c356a50e981_w=666_hs=03b6584bac521a933e4ec62bb9a7b4e6.jpeg)
歌舞伎「菅原伝授手習鑑」道真に仕えていた梅王丸は復讐を誓い藤原時平を襲う(歌川国貞)
道真が亡くなった直後、道真を陥れ子ども達も流刑にした、藤原時平を始め加担した貴族達が次々と謎の死を遂げていきます。
そして、洪水・長雨・干ばつ・伝染病など次々と天変地異が起こり、都の人々は「道真公の祟りだ」と恐れるようになりました。
醍醐天皇はその出来事に慄き、左遷の証拠となる文書を燃やすなど画策に走り、道真を右大臣に戻すなどと奔走しましたが、時すでに遅し。
とうとう、宮中に雷が落ち多くの人が焼死。それをきっかけに体調を崩して醍醐天皇も亡くなってしまいます。
さて、怨霊への恐怖に包まれた都は、この後どうなるのでしょうか…
続きは【後編】をごらんください。
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藤原時平の讒言を聞き入れ、道真を左遷した醍醐天皇。その判断は「聖代の瑕(きず)」と呼ばれた(写真:wikipedia)
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