日本最初の戦国大名。戦乱の世に生きた「北条早雲」の生涯【後編】 (2/2ページ)
朝良は敵対していた山内上杉家と和解し、早雲と対立した。
相模三浦氏の滅亡
早雲は上杉家との一進一退の衝突を繰り返すが、扇谷上杉家傘下であり相模の名門である三浦氏によって徐々に劣勢に立たされる。一時的な和睦によって窮地を切り抜け、体制を立て直し三浦氏攻略のために再度出兵。
1516年。三浦氏当主「三浦義同(みうらよしあつ)」「義意(よしおき)」父子は、激戦の末に討ち死。名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域平定を成し遂げた。
晩年1519年に伊豆の「韮山城(にらやまじょう)」で死去。享年64。家督は1487年に誕生した嫡男「氏綱(うじつな)」が継いだ。
早雲は積極的に自身の領国支配を目指した武将であり、最初期の戦国大名と考えられている。一方、生涯に渡って今川氏親の家臣という立場も守ったとされ、北条氏が戦国大名として独立するのは2代目の氏綱の時代である。
氏綱は1523年頃から「北条」姓を名乗り、北条氏は早雲から5代に渡って全盛期を迎え、関東支配を盤石なものとした。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan