“ペリー来航”で開国を決断した阿部正弘は「偉人か無能な老中か」
幕末の動乱の始まりを告げた黒船の襲来。ペリー艦隊の浦賀来航によって開国という外交方針の大転換に踏み切ったのが、幕府老中首座の阿部正弘(福山藩主)だった。
今でいう首相に当たる彼の評価は“開明的で有能な政治家”が一般的である反面、無能だという酷評もある。果たして、どちらなのか――。
ペリーが来航する一年前の嘉永五年(一八五二)、長崎出島のオランダ商館長は長崎奉行に、アメリカが翌年四月に蒸気船(黒船)を日本に派遣して通商を要求することになると通告した。
すでにこのとき、老中首座の地位にあった阿部はこの事態を受け、オランダからの風説書の和訳を江戸に送るように長崎奉行に命令。
一方、当時はまだ、太平洋航路が開けておらず、アメリカ東海岸の軍港ノーフォーク(バージニア州)を出港したペリーは、大西洋からアフリカ大陸南端の喜望峰を経由する大航海を経て、翌嘉永六年六月一三日に江戸湾に姿を見せた。
ペリーの来航予定が四月から六月にずれた点を除けば、風説書が「蘭人(オランダ商館長のこと)かねて申すとおり、(ペリー艦隊の)上官の名、船名すべて符号す」と極めて正確な情報を伝えていたにもかかわらず、幕府は目立った対策を講じることはなかった。アメリカの出方を読み間違えていたからだ。
こうしてペリーが来航した四日後、アメリカ合衆国のフィルモア大統領の国書を受け取らざるをえなくなり、阿部政権の対応が後手に回ったことから、戦前の歴史学者である田保橋潔氏は「政治的な決断をする勇気は乏しかった」と、そのまずさを指摘する。
実際、日本近海にはそれまでに何度も異国船が姿を見せている状況で、阿部は従来通りの対応で、アメリカが諦めると高をくくっていたのだろう。彼は、ペリー艦隊を日本で唯一の外交交渉の窓口だった長崎に廻航させようとしたが、この判断が甘かった。
ただ、それが当時、日本の外交の常識だったという意味では、阿部一人に責任を押しつけることはできない。実際、彼はペリーが恫喝外交に出るとは思わなかった。その象徴が白旗伝説である。
当時、アメリカと交渉に当たった浦賀奉行所の与力・香山栄左衛門が幕閣に宛てた上申書によれば、使節の一人は日本が国書の受け取りを拒んだ場合、その恥辱をそそがなければならないとして、こう続けたとされる。
「浦賀において余義なき場合(戦争)に至り申すべし。その節に至り候とも、(降伏を含めて)用向きこれあり候えば、白旗を建て参りくれ候え。鉄砲を打掛け申すまじく」
つまり、日本が交渉を蹴れば、戦争に突入する、ただし、降伏して白旗を掲げるなら、攻撃はしない――と恫喝したというのである。
だが、この話はアメリカ側の記録(『ペリー提督日本遠征記』)にはなく、実際、幕府のオランダ通詞(翻訳官)が、どれだけ正確に翻訳したか疑問が残る。
とはいえ、ペリーは浦賀に来航する前、琉球や小笠原諸島の父島にも寄港し、アメリカの海軍長官に宛てた書状から、日本が開国要求をはねつけた場合、ここを足場に武力行使を辞さない態度だったことも分かる。当然、ペリーの姿勢がここまで強硬なものでは、もはや阿部一人の決断でどうにかなる局面でもなかったのだ。
その後、一部の狂信的な攘夷派を除き、諸外国と貿易することを是とするムードが高まって維新を迎えたことからして、阿部はむしろ、外交を大転換させた勇気ある決断を示し、翌嘉永七年(1854)三月の日米和親条約締結に至ったとも言える。
しかも、阿部はアメリカ大統領の国書の受け取りについて、諸大名らはむろん、諸藩藩士や一般の者にまで意見を求めた。
そして、その結果、末は江戸吉原の遊郭の主人に至るまで、実に七〇〇近い答申が出された(『阿部正弘のすべて』/『ペリー外交と阿部正弘の外交』/松本健一)とされ、すでに当時、今で言う開かれた政治を行っていたことになる。
むろん、これが後に薩摩藩など雄藩の幕政に対する介入を招いたとの批判はあるものの、やはり柔軟な発想があったからこそ門閥によらず、優秀な人材を登用することができたのではないだろうか。
■老中首座を自ら退いて39歳の若さで死去した
勝海舟もその一人で、他にも川路聖謨、岩瀬忠震ら優秀な幕末の外交官、海軍の建設に尽力した永井尚志、反射炉の建造に取り組んだ江川英龍らは皆、“阿部チルドレン”と言える。
しかも、阿部は当時、攘夷派の首魁とみられた前水戸藩主の徳川斉昭を海防参与に任命。開明的な思想の持ち主だった阿部が、政治思想の異なる集団のボスを、いわば特命大臣に指名したのである。
現代の政治の世界でも政敵を入閣させて動きを封じる策はよくあるが、当時の阿部はそういう狙いだけでなく、斉昭の影響力に期待した節があった。
ただ、その斉昭が阿部を「憤激などは致さざる性にて、申さば、瓢にて鯰をおさえ申す風の人」と評したように、温厚だが、どこかのらりくらりと捉えどころのない性格が、決断力に欠けるという誤解を招いたのかもしれない。
実際、斉昭を登用したことなどは彼に災いした。
阿部は日米和親条約が締結された翌安政二年(1885)一〇月、のちに大老となる井伊直弼(彦根藩主)ら溜詰(親藩や譜代の重臣から選ばれ、老中とともに政務上の大事に参画した者)の反発もあり、彼らを融和する目的で、自ら老中首座の座を退いた。
その後、それまでの心労がたたって病床に伏すと、日米修好通商条約が締結される一年前の安政四年(1857)、この世を去った。まだ三九歳という若さだった。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。