“ペリー来航”で開国を決断した阿部正弘は「偉人か無能な老中か」 (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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 幕末の動乱の始まりを告げた黒船の襲来。ペリー艦隊の浦賀来航によって開国という外交方針の大転換に踏み切ったのが、幕府老中首座の阿部正弘(福山藩主)だった。

 今でいう首相に当たる彼の評価は“開明的で有能な政治家”が一般的である反面、無能だという酷評もある。果たして、どちらなのか――。

 ペリーが来航する一年前の嘉永五年(一八五二)、長崎出島のオランダ商館長は長崎奉行に、アメリカが翌年四月に蒸気船(黒船)を日本に派遣して通商を要求することになると通告した。

 すでにこのとき、老中首座の地位にあった阿部はこの事態を受け、オランダからの風説書の和訳を江戸に送るように長崎奉行に命令。

 一方、当時はまだ、太平洋航路が開けておらず、アメリカ東海岸の軍港ノーフォーク(バージニア州)を出港したペリーは、大西洋からアフリカ大陸南端の喜望峰を経由する大航海を経て、翌嘉永六年六月一三日に江戸湾に姿を見せた。

 ペリーの来航予定が四月から六月にずれた点を除けば、風説書が「蘭人(オランダ商館長のこと)かねて申すとおり、(ペリー艦隊の)上官の名、船名すべて符号す」と極めて正確な情報を伝えていたにもかかわらず、幕府は目立った対策を講じることはなかった。アメリカの出方を読み間違えていたからだ。

 こうしてペリーが来航した四日後、アメリカ合衆国のフィルモア大統領の国書を受け取らざるをえなくなり、阿部政権の対応が後手に回ったことから、戦前の歴史学者である田保橋潔氏は「政治的な決断をする勇気は乏しかった」と、そのまずさを指摘する。

 実際、日本近海にはそれまでに何度も異国船が姿を見せている状況で、阿部は従来通りの対応で、アメリカが諦めると高をくくっていたのだろう。彼は、ペリー艦隊を日本で唯一の外交交渉の窓口だった長崎に廻航させようとしたが、この判断が甘かった。

 ただ、それが当時、日本の外交の常識だったという意味では、阿部一人に責任を押しつけることはできない。実際、彼はペリーが恫喝外交に出るとは思わなかった。その象徴が白旗伝説である。

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