徳川家康に天下を取らせた戦国武将・藤堂高虎のフォロワーシップ【前編】 (4/4ページ)

Japaaan

ぶっちゃけ、予算とか大丈夫だったんですか?」

「ああ、それは自腹でなんとかなりました」

「自腹で」

その工事責任者こそが、秀長の重臣となっていた藤堂高虎でした。

ちゃんと上司(秀長)の了解を取ってから動けよって気がしますが、とにかく家康はこの一件で高虎のことを

築城に関する知見 主君に対する忠誠心 必要なことを自分で判断して動ける主体性

の持ち主として、記憶に刻んだものと思われます。そして、以降は親しく交際するようになったのです。

高虎、家康を支持する

さらに時は流れて12年後の1598年。天下人・豊臣秀吉がこの世を去ります。

その直後から、秀吉亡き後の政治の主導権を巡って徳川家康と石田三成の間で争いが起きますが、高虎は最初から徹底して家康を支持します。そして1600年に起きた関ヶ原の戦いでは、戦場での活躍はもちろんのこと、敵軍に対する裏切り工作にも従事し、味方の勝利に大きく貢献しています。

しかし、高虎の貢献は戦いに関することだけではありませんでした。

高虎は、諸大名に先駆けて家康に人質を出しています。時期に関しては諸説ありますが関ヶ原の戦い前後には実の弟を、家康が征夷大将軍となって幕府を開いた後は妻と長男を、それぞれ家康に人質として預けています。

人質を出すということは

「私は絶対にあなたを裏切りません」

という意思表示であり、差し出される側にとっては大きな安心材料になりますが、当時の家康は

「おまえら、人質を出せ!」

と諸大名に強制するほどの権力あるいは権威を持っていませんでした。下手にそんなことを言い出せば、諸大名の反発を買ってせっかくの天下が揺らぎかねない。

しかし高虎が自分から人質を出したことで、他の大名たちも

「あ、俺も人質出した方がいいのかな」

と後に続くことになります。このことは、家康すなわち江戸幕府の基盤を固める上で大いに役立ちました。

ちなみに家康の人質になった高虎の弟ですが、領地を与えられて家康の家臣になっています。いちおう人質として預かりますが、形式的には家臣ということにしておきますねという、家康の高虎に対する配慮が垣間見えます。

【後編】につづきます。

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