主君を幾度も変え一兵卒から大出世を遂げた戦国武将・藤堂高虎に学ぶ能力開発
一兵卒からスタートし、主君を幾度も変えて、最終的には32万石の大名にまで昇りつめた藤堂高虎。今回は「能力開発」という観点から、彼がなぜ大出世を遂げることができたのかを考えていきたいと思います。
藤堂高虎ってだれ? という方、ちょっと復習しておきたいなという方は、こちらにその生涯をまとめてありますので、ぜひお読みください。
主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【前編】 主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【後編】はじめに、能力開発に関する高虎の考え方が垣間見えるエピソードをご紹介します。関ヶ原の戦いが終わり、敗軍の将となった石田三成との会話です。
石田三成とのエピソード
山中に逃れていたところを捕らえられた三成に対して、諸将は罵ったり労りの言葉をかけたり柱の陰からこっそり覗いたりと様々な対応をしたとされていますが、高虎がかけた言葉はこんなものでした。
「わが隊と戦ってみて、何か気付いたことはありませんか?」
三成は少し考えてから答えます。
「そうですね……鉄砲隊の動きが悪かったように思います。統率がとれていなかったようなので、優秀な人材を指揮官に登用してはいかがでしょう?」
「なるほど、すぐに改善します」
かくして藤堂家では鉄砲隊の指揮官に高級武士を充てることになり、各段に動きが良くなったとのこと。
自軍の弱点を知るには実際に戦った相手に聞くのが効果的。
とはいえ勝利に驕ることなく敗者にアドバイスを求め、しかもすぐにそれを取り入れるというのは、なかなかできることではないと思います。
この時、高虎は44歳。彼はそれまでも、そしてそれからも、自らの能力を高める機会を積極的に掴みに行っているのです。
藤堂高虎の能力開発藤堂高虎は一兵卒からキャリアをスタートしました。戦場を駆け、槍を振り回して敵を打ち倒す。そこで求められるのは個人的な戦闘能力、つまり筋力、持久力、反射神経、そして白兵戦技術などでした。
幸い高虎は身長190センチという恵まれた……どころか当時としては規格外の体格の持ち主だったため、その点では大きなアドバンテージがありました。14歳の初陣で手柄を立てていますが、それも天与のものあってのことでした。
そして手柄を立てると主君から領地を与えられ、兵を率いる身になっていきます。領内統治のノウハウや戦術指揮能力は必然的に求められるようになり、実務を通じて身に付けていきますが、ここまでは誰もが通る道。
しかし高虎の場合は、少し事情が違いました。
築城技術1576年、20歳の高虎は羽柴秀長の家臣になります。
秀長は、当時織田信長の下で出世街道を突き進んでいた羽柴秀吉(後の天下人・豊臣秀吉)の実弟にして右腕。高虎も秀長と共に戦場を駆け回り、新たに獲得した領地を治め、敵味方諸将との折衝に従事しますが、そんな多忙な日々の中で安土城を始めとした城郭の建造に携わることも少なくありませんでした。
高虎はもともと戦闘要員として採用されたので、築城なんかやってられるか……とはならず、積極的にノウハウを学んでいったようです。
「城の構造を知ることは、城を落とす際にも役に立つ。一石二鳥じゃないか」
くらいのことは考えていたのかもしれません。
また、どんなに素晴らしい城を設計しても、実際に建てることができなければ意味はありません。実際に城を築くフェイズは職人たちに委託することになります。
当時は近江(滋賀県)や大和(奈良県)に高い技術を持った職人集団がいたようですが、近江は高虎の地元であり、大和は主君・秀長の領地。地縁を活かし、高虎は彼らとの関係築いていったようです。
かくして高虎は、1585年には築城の責任者を命じられるまでに成長します。そして最終的には黒田如水、加藤清正らと並ぶ築城の名手として知られることになるのです。
しかし、高虎の特技はそれだけではありませんでした。
次回、後編に続きます
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

