福岡県直方市の須賀神社にある「建武(けんむ)の板碑」を調べてみた (2/3ページ)

心に残る家族葬

この説は、摩耗した板碑の7行目に「明窓」という文字が読み取れることを根拠としている。しかしこれは、合戦が起こった時と、明窓宗鑑の生没年が合致しない問題がある。

■もう一つの言説

そしてもうひとつは、かつてこの地に存在した荘園・粥田荘(かゆたのしょう。現在の直方市・飯塚市北部・鞍手郡小竹町・宮若市)の有力者が、亡父の供養のために立てたというものだ。更にその有力者として、近在の英彦山(ひこさん)修験道との関わりを指摘するものもある。
衣食住の貪欲を断って、英彦山から福智山(ふくちやま)まで、往復およそ80kmの距離を渉猟する厳しい修行である秋の峰入り(みねいり)において、須賀神社がそのルートに入っていた。それゆえ、建武元(1334)年に記された「祇園社(須賀神社のこと)大宮司職補任(ふにん)状」に、大宮司職の「不慮横死」を受けて、養子の彦房丸の相続を惣政所(そうまんどころ、土地の統治者)が補任したと記されていること。また、江戸後期の国学者・伊藤常足(つねたり、1775〜1858)の著した『太宰管内志』(1841年)では、先の彦房丸の末裔が、須賀神社の祖であると述べていることから、時期を勘案すると、板碑は須賀神社の大宮司を供養するために造立されたとする説だ。

これら2つの説のどれが正しいのか、今となっては何とも言えない。ただ、室町幕府の礎を築いた足利尊氏の手によると考える最初の説の方が、「歴史のロマン」が際立つのは言うまでもない。しかし、誰を祀ったものであったとしても、700年近く経った今なお壊されることなく、地域の人々に大切にされている板碑そのものの価値や祈りの心が消え失せるわけではない。

■最後に…

2020年はコロナウイルスに始まり、コロナウイルスに終わった1年だった。しかし2021年以降、世界中の叡智を結集したワクチンや治療法が効果を発揮し、感染者の増加も止み、社会の混乱や経済の沈滞、更には人々の心から不安感が消え去った時、亡くなった人々の追悼やコロナウイルスそのものの「封じ込め」の願いを込めたモニュメントが日本国内のみならず、世界中でつくられることだろう。

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