福岡県直方市の須賀神社にある「建武(けんむ)の板碑」を調べてみた (1/3ページ)
かつて「筑豊三都」の一角を占め、石炭産業で興隆を極めた、福岡県直方市上境の須賀神社の裏手に、「建武(けんむ)の板碑」と呼ばれる、古い石造物が祀られている。板碑とは、鎌倉時代に多くつくられた、死者の供養のために立てる塔婆の一種だ。頂上を山形に整え、その下に二段の切り込みと額部をつくり、広く設けられた身部には、供養の対象となる本尊を仏像や梵字を刻む。そしてその下に造立の願文・願主名・年紀を記す。大きさや高さそのものは巨大なものが少なくないが、厚みが薄く、板のように見えるため、「板碑」と呼ばれている。特に埼玉県・秩父産の緑泥片岩製の「関東型」と呼ばれているものが有名だ。
■「建武の板碑」の建立時期
これは砂岩製の高さ136cm、幅60cm、厚さ12cmの、摩耗が著しい石碑だが、大きく胎蔵界大日如来の種字(しゅじ、梵字)「アーンク」が読み取れる。銘文に、「帰命十方佛/念発弘願 建武三年」とあることから、南朝延元元年または建武3年(1336年)に立てられたことがわかる。
■「建武の板碑」に残る二つの言説
この板碑のいわれには、2つの説がある。ひとつ目は、1336年、京都で敗れた北朝の足利尊氏(1305〜1358)が再起を図るために九州に下った。そこで南朝側の武将・菊池武敏(?〜1341?)が率いる軍勢と多々良(たたら)浜(現・福岡市東区)で激戦となった。最終的に尊氏側の勝利に終わったこの合戦だが、敵味方共に夥しい戦死者が出た。
そこで尊氏は京都・建仁寺(けんにんじ)や博多・聖福寺(しょうふくじ)の住持(じゅうじ)を務めた高僧、明窓宗鑑(みょうそう/めいそうそうかん、1234〜1318)に依頼して、死者の供養をさせ、この板碑を立てたという。