宣教師ルイス・フロイスが残した戦国ニッポンと織田信長の実像! (3/3ページ)

日刊大衆

「彼(信長)は、司祭(フロイス)を呼び、橋上の板に腰をかけ、陽があたるから(帽子を)かぶるようにと言った」

 信長はここで、約二時間にわたってフロイスと話し、「年はいくつか」「ポルトガルやインドから日本に来るのに、どのくらいかかるか」「この国でデウスの教えが広まらなかったら、またインドに帰るのか」などと矢継ぎ早に質問したとされ、二人はその後、何度も会うことになる。

 フロイスが当時、信長の居城だった岐阜城を訪ねた際は、本人に膳を運んでもらう接待を受け、そうした際の自身の観察眼に加え、信長に近侍していた者から多くの情報を得たことで、冒頭の人物描写が書き残された。

 こうしてフロイスは四月八日に信長から、布教の自由を保障する朱印状を与えられた。むろん、信長はその写しがポルトガルやインドに送られ、自身がフロイスに与えた恩恵が伝わることを期待し、南蛮諸国と交流することを望んでいたからだ。

 その後、フロイスは天正九年(1581)、イエズス会の巡察師で来日していたヴァリニャーノが本能寺の信長を表見訪問する際に同行。その翌年、本能寺の変が起きたときは九州にいた。

 一時、ヴァリニャーノに同行してマカオに渡った時期があったものの、豊臣秀吉の天下統一をしっかりとその目で見届け、慶長二年(一五九七)六月六日、長崎で病没した。享年六六。

 当時はすでに秀吉の晩年に当たり、二六聖人殉教事件でキリシタン受難の時代だった。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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