宣教師ルイス・フロイスが残した戦国ニッポンと織田信長の実像! (2/3ページ)
フロイスはその後、豊後のキリシタン大名だった大友宗麟に出会い、さらに海路で堺を経て京を目指し、一三代室町幕府将軍だった足利義輝に拝謁。彼は当時、日本語を十分に話すことができないもどかしさを感じながらも、布教活動は順調に進むかに思われる中、この五か月後の永禄八年(1565)五月一九日、義輝が家臣である三好と松永勢に弑逆される事件が起きた。
こうなると、バテレン(キリシタン宣教師)に反感を抱く勢力が自然と活気づき、さらに、天皇から宣教師追放の勅令が出されたことで、畿内で布教を任されていたフロイスは京を追われ、堺などで潜伏生活を開始。
そうした中、信長は義輝の弟(義昭)を奉じて上洛し、その先陣として和田惟政らが永禄一一年(1568)九月二三日に京に入った。
そして、この惟政が義輝の奉公衆で、キリシタンのダリオ高山飛騨守友照(のちの高槻城主・高山右近の父)に連れられて京の教会を訪れたことがあったため、バテレンに好意的で、結果、フロイスは永禄一二年三月一一日に信長の許可の下、三年八か月ぶりに京に戻った。
とはいえ、信長に直接に会うという大仕事が残ったままだったため、その京の宿舎だった妙覚寺を惟政がフロイスに案内することになった。
だが、信長はひと目のないところで宣教師に会い、洗礼を受けたと誤解されることを敬遠してか、当時は遠目にフロイスを見ただけで、贈り物は黒いビロードの帽子を除き、すべてを返却したという。
それでも惟政の骨折りによって、四月三日にようやく信長とフロイスの面会が実現した。二人はそれぞれ三六歳と三八歳の同世代。
■豊臣秀吉の天下統一も見届けて日本で他界!
信長が一五代将軍に就いた義昭のために普請中だった二条城工事現場で、建築作業を監督しながら堀端の上に立ち、フロイスの到着を待ったという。『日本史』には次のようにある。