宣教師ルイス・フロイスが残した戦国ニッポンと織田信長の実像! (1/3ページ)

日刊大衆

写真はイメージです
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「中くらいの背丈で華奢な体軀。髭は少なく、はなはだ声は快調」

「睡眠(時間)は短く、早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術にきわめて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった」

「自邸においてもきわめて清潔」

「対談の際、遅延することや、だらだらとした前置きを嫌い、ごく卑賤の者とも親しく話した」

 これらはいずれも織田信長の特徴や性格などについて、戦国時代に来日したポルトガル人宣教師であるルイス・フロイスが、自身の観察眼に基づいて分析したものだ。

 フロイスが日本滞在中に記した『日本史』は一八世紀半ば、ポルトガル人の学士員らにマカオで発見されるまで眠り続け、当時の日本国内の様子を知ることができる貴重な証言が満載。彼は布教活動の一方で、日本の習俗などを頻繁に本国に書き送り、“戦国ニッポンの観察者”ともいわれたばかりか、前述のように信長ら著名な武将たちとも関係があった――。

 フロイスは一五三二年頃、リスボンで生まれ、王室の書記官として文才を遺憾なく発揮したあと、一七歳のときにイエズス会(異教徒への布教などを目的とする修道会)に入った。

 その理由は定かでないものの、彼は後にインドのゴアで布教活動を開始。この翌年、フランシスコ・ザビエルが連れていた日本人のアンジロウに出会ったことで、日本に対する興味を掻き立てられたのだろうか。

 ザビエルが日本での活動を終えてゴアに帰着し、中国に布教に向かう途中、上川島で病死すると、文才と語学の才能を買われ、二三歳のときに彼に代わって日本に向かったが、マラッカ(マレーシア)で季節風を待つ事態に直面したことから引き返し、パードレ(司祭)に任命された。

 そんなフロイスに再び、日本に渡航する機会が巡ってきたのは永禄五年(1562)のこと。信長が尾張を統一した翌年で、ゴアを出発して肥前の横瀬浦(長崎県西海市)に上陸し、三二歳でようやく日本の地を踏んだ。

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