本能寺の変「黒幕と密会」疑惑も!“光秀の盟友”細川藤孝の処世術 (2/3ページ)

日刊大衆

 藤孝はその後、信長に仕えて細川姓を捨て、山城国の長岡郷(長岡京市付近)に領地を持っていたことから関ヶ原合戦の頃まで長岡藤孝を名乗り、本能寺の変の直前に不可解な行動を取った。

 まず、光秀と親交が深かった吉田兼見の日記『兼見卿記』(別本)の天正一〇年五月一四日条には、「長浜(長岡兵部大輔のことで藤孝をさす)が早天、安土へ下向」という記述がある。

 五月一四日は光秀が信長から徳川家康の接待饗応役を仰せつかった当日で、彼は一七日に当然、この職務を解かれ、二七日に愛宕山に参籠して籤を引いた結果、謀叛を決意したとされている。

 つまり、光秀が接待饗応役を仰せつかった五月一四日は、本能寺の変の動機を考えるうえでは非常に重要な起点として注目される一方、藤孝は前述のようにこの日早朝、安土に下向。『兼見卿記』には光秀についても、「惟任日向守(光秀)在庄」という表現があり、家康が翌日、到着することなどを考えれば、彼はすでに安土にいたと思われ、早朝にやってきた藤孝と自身の邸などで密談した可能性もある。

 また、藤孝は兼見と従兄弟同士であるばかりか、五月一二日から京の兼見邸に逗留したことも確認され、ここで二泊し、一四日朝にわざわざ安土に向かったことになる。

 一方、兼見は光秀が敗死したあと、その関係を印象づける日記の記述をすべて書き換え、前述の「別本」は奇跡的に残されたそれ以前のもので、彼はかねてより、本能寺の変の黒幕の一人とされてきた。

 だとすれば、藤孝は京の兼見邸で兼見と二日にわたり、じっくりと話し合い、その内容を光秀に伝えるために、わざわざ安土を訪れたのか。

 当然のことながら、藤孝と兼見の会談内容を史料で裏づけることはできないものの、やはり、この場で光秀の動機に繋がる何かが話し合われたとしても不思議ではない。

 光秀はこうして、六月二日早朝に本能寺で信長を討ち、その後、京から居城である坂本城(大津市)に引き揚げた。

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