本能寺の変「黒幕と密会」疑惑も!“光秀の盟友”細川藤孝の処世術 (3/3ページ)

日刊大衆

その際、兼見は京の粟田口まで光秀を追い掛け、彼が接収した安土城(信長の居城)をその後、朝廷の使者として訪れ、銀五〇枚を贈られたという。

 もはや謀叛に関与していたと取られかねない行動をした怪しい人物と言え、藤孝がその彼と二日間、何事かをじっくりと話し合い、まもなく安土の光秀を訪ねたその行動もまた、不可解と言うしかない。『細川家記』によると、本能寺の変の前、丹後宮津城の城主だった藤孝は、重臣である米田求政を信長の出迎えの使者として京に遣わしたあと、その彼が本能寺の変を知り、健脚自慢の早田道鬼斎を城に走らせたという。

■“黒幕”と会った直後光秀の元を訪ねている

 そして、藤孝は六月三日、道鬼斎からもたらされた情報を聞いて仰天し、嫡男である忠興(光秀の娘のお玉の夫)とともに剃髪。

『細川家記』にその後、光秀から届いた手紙が掲載され、その内容、すなわち彼の言い分が概ね次のように記されている

●細川父子が揃って元結を払ったという話を聞き、いっときは腹立たしく思ったが、やむをえないことと思い直した

●謀叛は娘婿である忠興を取り立てるため

 つまり、細川父子の加勢を求めた内容だったことが分かる。

 むろん、この光秀の手紙が筆跡や花押(サイン)からして偽文書(ニセ手紙)という説(『信長と十字架』/立花京子)もある。

 仮にそうだとすれば、はたして誰が手紙を書いたのか。もしや、藤孝が歪曲した事実を後世に残すために書いた可能性はないだろうか。

 実際、藤孝は光秀と昵懇の間柄。そんな彼が子とともに剃髪してまで一味となることを拒んだことを示すためには、それに対する光秀の反応が分からないと説得力に欠けるためだ。

 しかも、藤孝は本能寺の変が起きる直前、黒幕の一人とされる兼見と会談し、その足で光秀を訪ねた。

 当然、この事情を知る者からしたら、なんらかの連絡役とみられかねず、用心に用心を重ねたとしても不思議ではない。

 藤孝をドラマで演じた眞島の印象からかけ離れた老獪なイメージだが、実際の彼は処世術に長けた一方で、一癖も二癖もある人物だったと言えそうだ。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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