戦国史の謎を解く新史料が発見!明智光秀の三日天下は「船合戦が原因」 (2/3ページ)
だが、『信長公記』によると、光秀が「(瀬田城の)山岡美作(景隆) ・山岡対馬(景佐)兄弟」に「人質出し、明智と同心仕り候へ」と申し入れたところ、二人が「信長公御厚恩浅からず」という理由から橋を焼き落とし、居城に火を懸けて甲賀山中の山中城に退去。
光秀は景隆の妹を自身の長男である光慶の嫁に迎えようとする関係だったことから驚き、すぐに橋の補修を命じた。
だが、三日もロスし、居城の坂本城(大津市)に一度、戻ることを余儀なくされたことから、安土に入城することができたのは六月五日になってから。
秀吉はこの翌日に陣払いを行い、「中国大返し」を始め、結果、このロスが大きく響いて光秀は後手に回り、加勢を期待していた娘婿の細川忠興ですら、安土城に入ることすらできない舅をポスト信長と認めず、彼は孤立無念の状態となった。
それゆえ、筆者は『明智光秀は二人いた!』(双葉社)に〈水軍を持っていた光秀は瀬田橋の修復を待つより、船で小刻みに兵を安土へ送ってでも“信長の城”を押さえておくべきだった〉と書いた。
実際、光秀は水軍を持ち、坂本城は本丸を中心に、三重の堀がすべて琵琶湖に直結していた水城で、大きな御座船も出入り。『信長公記』にも「明智十兵衛、囲い船を拵こしらえ、海手の方を東より西に向って攻められ候」とあり、船のデッキに遮蔽物を設けた囲い船で、水上から堅田砦(大津市)を攻めた記録が残っている。
一方、山岡景隆も琵琶湖に面した瀬田城の城主。やはり水軍を持っていたのだろう。
明智水軍は琵琶湖を舞台にした船合戦で山岡水軍に阻まれ、兵を坂本から安土に小刻みに送ることができず、橋の修復を待つしかなかったのだ。
一方、新たな史料は他にも、ある伝説の真相を炙り出した。「湖渡り伝説」である。
安土城の守将だった明智秀満が山崎の合戦で明智勢が敗れたあと、城を捨てて坂本城に逃げ帰ろうとしたときのこと。
彼が馬に乗って湖水を渡ったとする伝説が残されている。江戸時代に生まれた伝承だ。
秀満は光秀の女婿や従兄弟という説があり、「明智五宿老」と呼ばれた重臣の一人。