戦国史の謎を解く新史料が発見!明智光秀の三日天下は「船合戦が原因」 (3/3ページ)
彼は坂本に撤退する本道を敵(羽柴秀吉軍)に塞がれたことから、やむなく琵琶湖に馬を乗り入れたという。
すると、羽柴勢は渚際まで見物にやってきて、「溺れ死ぬところを見ようじゃないか」と言って笑い合った。
だが、秀満は普段から馬で湖水に乗り入れていたことから、浅瀬を把握しており、嘲笑をものともせずに粟津(大津市)の北から唐崎(同市)まで、見事に渡りきったという。
これを一般的に「左馬之助の湖水渡り」というが、史料には“弥平次”の名で登場する。
■秀満が馬ごと船に乗り合戦を指揮したのか!?
秀満はこれまで、左馬助か弥平次の通称で知られていたが、「乙夜之書物」という江戸時代の史料では二人が別人として書き分けられていることが今年一月に判明し、話題になったばかり。だとすると、「弥平次の湖水渡り」と言うべきだろう。
また、新史料には、瀬田橋を落とされて行く手を阻まれた秀満が、「船に乗って湖上を済らんと欲する」と書かれていたという。
つまり、行く手を阻まれた明智勢が水軍を仕立てて安土に向かおうとした際、秀満の指揮で船合戦となり、これがいつの間にか彼が単身、馬で渡ったという伝説に転化した可能性もある。
一方、『惟任退治記』には「弥平治、小舟を取り乗り、坂本城に籠る」とある。秀満が馬で直かに汀に乗り入れたわけではなく、乗ったまま小舟に移って湖を渡ったというのだ。
ただし、これを『惟任退治記』は伝説と同じく、山崎の合戦で明智勢が敗れ、坂本城に引き揚げる際の出来事とする。
だが、実際はその逆で、秀満は京から安土に向かう際、馬ごと船に乗り込み、船合戦を指揮したのかもしれない。
常識的に考えれば、この光景は周囲にかなり異様に映ったはずで、そうなると、やはり伝説として残りやすい。
一つの古文書が発見されたことによって、こうして事実の解明が進み、かつ、伝説の真相が浮き彫りとなるところに歴史の醍醐味があるとも言えるだろう。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。