宗教なくして無神論は生まれなかった。無神論は何に救いを求めるか。

心に残る家族葬

宗教なくして無神論は生まれなかった。無神論は何に救いを求めるか。

神や仏が実在するのはわからない。本当に存在するのかもしれないし、人間が弱さ故に作り出したものかもしれない。一方で神仏を信じない無神論者も常に存在している。彼らには彼らの救いがあるとしたらそれは何か。

■理性的な無神論者

現代は無神論の時代と言われるように、無神論とは宗教と相反する科学的世界観の産物のように思われている。しかし神の存在の否定が無神論なのだから、無神論は信仰=宗教から生み出されたものだといえる。宗教の歴史は無神論の歴史でもある。

無神論といっても単純ではない。例えばキリスト教社会においては理神論も無神論とされた。理神論は、世界は「神の最初の一撃」で創造されたが、その後我々には一切関わりがないとする。世界を神が創造した機械と見なし、創造後は創造主の手から離れ独自に動いていくというイメージである。世界の創造、秩序ある構造など宇宙論的な謎を解消しつつ、個人の人生や運命には関わらない科学的哲学的な神である。当然人間を教え導く聖書の神とは相容れない。また汎神論者・スピノザ(1632〜77)も無神論者とされた。汎神論は天地自然全てに神・生命が宿るという考えである。理神論が背景にあり、やはりキリスト教的な人格神を否定する立場である。

■死後を保証するのが神と考えると…

現代の我々の感覚では神の存在そのものは認める理神論は無神論ではない気もするし、汎神論も特定の人格神ではないだけで、人間を超えるモノを想像させる。いずれにしろ感情のないクールな神モデルであり「理性的無神論」といえる。科学・学問の発達による理性的な認識判断から生まれた、現代に至る科学的無神論の起源といえるだろう。

だが、神の存在意義の重要な要素として「死後の保証」を考えた時、理神論や汎神論の神はあまり役に立ちそうにない。我々には救いの手が必要である。キリスト教、イスラム教、大乗仏教が世界宗教となったのは、我々ひとりひとりを救ってくれるホットな神の存在ゆえではないだろうか。そのホットな神の手も無神論者は理性、合理性などを持って否定する。しかしそれは若さや健康な肉体あってのものではないだろうか。

■無神論者は強いのか

西洋史家・竹下節子は「真の無神論者」を論じるイエズス会のピエール・シャロン(1541〜1603)について次のように述べている。

「興味深いのは、シャロンが、真の無神論者は稀である、なぜなら無神論者であるには魂がつよくなければならないからだと言っていることだ。絶望とたった独りで向かい合う無神論者には一種悲劇的な偉大さがある〜略〜ともあれ、無神論が『強者の論理』として明確に位置づけられたのは注目に値する」(竹下節子「無神論―二千年の混沌と相克を超えて」)

若く健康なうちに無神論を気取っていても、余命宣告を受けた病床においてなお無神論を貫くのは難しいだろう。神がいないということは、自分が置かれている絶望的な状況に、神が与えた試練などといった超越的な意味は存在しないことになる。単に病が身体を蝕み死=無が近づいているだけのことだ。平常時に科学がどうのとクールな態度を取っているうちは真の無神論者とは言えない。生命の崖っぷちに立ちながら神の救いの手を拒否する強靭な意志こそ無神論者の姿といえるだろう。目前に迫る死神が恐ろしくないはずはないのだが、そこまでして神を拒否するのは何故だろうか。信じた方が楽ではないのか。非科学的であるからなどという理屈を述べている場面ではない。ペシミズム(虚無主義)に陥っている可能性もあるが、やはり孤独に死を独りで受け止める意志こそ人間の自立の証であり、彼らの矜持なのだろう。その矜持こそ彼らの救いなのかもしれない。確かにその強さには「悲劇的な偉大さ」を感じる。

それと比べるなら神を信じる信仰者の心は弱いといえる。弱いからこそ神に頼る。そして、それゆえ強くなることもあるのだ。織田信長(1534〜82)を最も恐れさせたのは、一向宗(浄土真宗)の阿弥陀仏への絶対的な帰依であった。阿弥陀仏に全てを任せている一向宗に死は恐怖はならない。敵に回して最も恐ろしいのは死を恐れない人間であろう。真の無神論者と一向宗のような真の信仰者に共通するのは、自らの信じる道に一点の曇りも無いことである。ここに至り無神論者にも信仰者にも悲劇的な偉大さを見出すことができる。強靭な意志は無神論者だけのものではない。

■逃避的な無神論者の「無」

一方で強靭な意志とは真逆な無神論者もいる。死が恐ろしいのは、死が無であるということだ。自分という存在が消えてなくなる「事実」。これを覆すには魂の存続、死後の世界の実在、それらを保証する神仏の存在…つまり死後の続き、死後の保証である。これらを満たすのが宗教であるわけだが、「無」であることが救いである人たちもいる。例えば自殺をした人、自殺願望のある人は、生まれ変わったら来世では幸せに…死んで天国に…といった発想もなくはないだろうが、多くは「消えてしまいたい」という思いではなかろうか。自殺願望者の多くは「無」になりたいのではないか。彼らにとって生きることは耐え難い苦痛である、死はすべての終わり、苦しみの終わりである。そんな人たちにとって、死んだその後にまだ続きがあるのでは救われない。

キリスト教ではこの世の人生は神より預かった身体をもって生きることであって、これを途中で放棄することは大きな罪になり地獄落ちとなる。キリスト教に限らず倫理的要請からも宗教が自殺を肯定するわけにはいかない。しかし何もかもから逃げ出したい、消えてなくなりたいと願う人たちにとって、死後に続きがあるばかりか、今以上の地獄が待っているとするなら、この世にもあの世にもどこにも逃げ場がないことになる。かくして彼らは無神論を抱いて無になろうとするのではないだろうか。これを「逃避的無神論」ということかできる。

しかし、無になるとはどういうことなのか。無とはなんなのか。無を考えることなどはできないのではないか。そもそも無は無いのだから、無を考えること自体が矛盾している。禅の高僧やハイデッガー(1889〜1976)、マイスター・エックハルト(1260〜1328)などは難解だが「無」を単なる観念で終わらせず徹底的に思索した。おそらく逃避的無神論者はそこまで「無」について思索してはいない。神は存在せず、死は完全な無であったとしても、「無」の正体がわからない以上、無になることが本当に救いになるかどうかもわからないのである。

■沈黙する神

切実な、実存的な無神論も存在する。震災や疫病、事件などの被害者らが抱く神への不信、不満である。あまりに不条理な世の中のどこに神がいるというのか。無力で無情な沈黙する神に対する怒りと悲しみの無神論である。この無神論に反論するのは難しい。リチャード・ドーキンスのような好戦的な無神論者になる気持ちも理解できる。それでも、そのような状況下において人は跪き、手を合わせるということをするのもまた事実である。

■ 「救い」から見る無神論

人智の及ばない何かに対する畏敬の念が、神仏への信仰を生んだ。同時に科学・学問の発達による理性的な認識から無神論が生まれた。一方が正しいというわけではない。どちらも人間の精神の営みであり、信仰者も無神論者も救われたいことに変わりはない。クールに見える無神論も「救い」の観点から考えると非常に人間臭いものが見えてくるのである。

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