日本橋、遊郭、長屋…浮世絵で見る、江戸時代を生きる人々のタイムスケジュールはどうなっていた?【最終回】

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日本橋、遊郭、長屋…浮世絵で見る、江戸時代を生きる人々のタイムスケジュールはどうなっていた?【最終回】

これまで“江戸を生きる人々の1日のタイムスケジュールはどうなっていたか”についてご紹介してきました。今回は“午前1時頃~午前3時頃”の江戸の様子を見ていきましょう。

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お江戸のタイムスケジュール バックナンバー

夜八つ(午前1時頃から午前3時頃まで)

午前1時と言えば真夜中です。人工的な灯りがほとんどない江戸の町で、頼りになるのは月のあかりぐらい。提灯を持たなければ外は歩けません。

昔も今も真夜中は強盗などの犯罪や、火事などが起こる可能性が高まります。

『八代目市川団十郎の白井権八』画:歌川国芳(東京富士美術館所蔵)東京富士美術館収蔵品データベース収録

『八代目市川団十郎の白井権八』画:歌川国芳(東京富士美術館所蔵)東京富士美術館収蔵品データベース収録

江戸の夜では不意打ちで相手を刀で斬り殺す“辻斬り”が横行しました。中には自分の刀の試し切りのために辻斬りをするなどという現代では信じがたいこともありました。

当時は武士など日本刀を持つ人間と、何も武器を持たない普通の町人が、同じ町中を行き交っていたのですから、冷静に考えてみると恐ろしいことではありませんか。

上掲の浮世絵に描かれた「白井権八」は、鳥取藩の武士“平井権八”という人物の話を元に描かれたものです。

訳あって鳥取から江戸へと逃亡してきた平井権八は、やがて評判の高い“遊女小紫”と昵懇となり来世をも誓い合う仲となりました。しかし身請けどころか吉原に通うお金にすら困り、ついには金品を盗み取るために“辻斬り”をして130人を斬り殺してしまいました。

最後には平井権八は鈴ヶ森刑場で処刑され、遊女小紫は権八の墓前で自害しました。この話が話題となり歌舞伎や浄瑠璃で“白井権八”として多く上演されたのです。

このような“辻斬り”の横行を防止するために、大名や旗本たちによって“武家地警備”として辻番所が設けられ“辻番”が武家地を巡回するようになりました。

江戸の町の自治組織

類聚近世風俗志:原名守貞漫稿 喜多川守貞:著 国立国会図書館デジタルコレクションより

類聚近世風俗志:原名守貞漫稿 喜多川守貞:著 国立国会図書館デジタルコレクションより

この絵の中央に“木戸”があり、その右側には木戸の開け締めの番をする「木戸番」の小屋が描かれています。

「木戸番」については“日本橋、遊郭、長屋…浮世絵で見る、江戸時代を生きる人々のタイムスケジュールはどうなっていた?【その8】/町中の木戸が閉じられる” でご紹介しておりますので御覧ください

そして門の左側に描かれているのは、「自身番」と呼ばれる人たちの詰所である「自身番所」です。「自身番」とは町の家主を含めた3人から5人で構成され、交代で“町内警備そして自治”にあたりました。

上掲の「自身番所」には槍のようなものが描かれていますが、自身番は町内を巡回し不審者がいれば捕らえて奉行所に報告したのです。

悪抜正直曽我 戯作:恋川春町 国立国会図書館デジタルコレクションより

悪抜正直曽我 戯作:恋川春町 国立国会図書館デジタルコレクションより

上の絵は“自身番所”の前にいる二人の人物を描いています。右側の先端に輪のついた鉄棒をもった人物が「自身番」です。この鉄棒を地面に突いて“チャリン、チャリン”と鳴らしながら夜の町を見廻りました。

もう一つ自身番には「火の番」という重要な役目もありました。上掲の絵にあるように自身番所の前には水を蓄えた桶や提灯・纏などが描かれています。そして最初にご紹介した「類聚近世風俗志」の“木戸番小屋”には小さな“火の見櫓”が描かれています。

いざ火事が起こると、火消人足たちは自身番所に集まり火消しの道具を持って火事場へと向かいました。

鎮火安心圖巻 画:鬼蔦斎畫圖 国立国会図書館デジタルコレクションより

鎮火安心圖巻 画:鬼蔦斎畫圖 国立国会図書館デジタルコレクションより

そして木戸番は火事を告げる半鐘を鳴らしたのです。

このように木戸番と自身番は協力しあって江戸の町の安全を守っていました。

町火消の心意気

江戸は大変火事の多い町でした。その理由としては極端な人口集中(江戸中期、江戸は人口において世界最大都市でした)、木造家屋の密接、冬季の乾燥した強風が吹き込む風土、金銭略奪のための放火などがありました。

明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』 ウィキペディアより

明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』 ウィキペディアより

江戸の消防体制としては「武家火消」と「町火消」の2つの組織がありました。

「武家火消」は江戸城や武家屋敷を守ることが主な役目で、町人たちの町家の火事対策には不十分なものでした。

そこで8代将軍吉宗は、南町奉行の大岡越前守忠相(あの加藤剛がテレビで演じて有名な大岡越前ですね、懐かしい)と大火対策を協議し、享保3年(1718年)、町人による「町火消」を編成させました。

もともと町屋の子弟や奉公人たちで構成されていた「店火消」という組織があったのですが、所詮は素人なので火事場に行っても役に立たない。大岡越前守はまずはそれを機敏な活動が得意な鳶職を中心とする組織に組み替え「町火消」を作ったのです。

そして名主たちの意見を参考にしていくつかの町を「組」としてまとめ、「いろは48組」を設けました。

「いろは48組」は隅田川の西側を担当し、隅田川の東側は「本所深川16組」が設けられました。

町火消に関する費用はそれぞれの町で分担して賄うこととされましたが、やがて組員たちは無報酬で火消しを行うようになったのです。

このようにして組織された町火消は、やがてお互いの組の名誉のために働くようになり、組の纏を上げて功績を競うようになりました。

町火消の出動範囲は町家だけのはずが、やがてその功績が認められ武家屋敷の火災はもちろん、江戸城二之丸の火災時にも出場して、定火消や大名火消にも勝るとも劣らぬ実力を示しました。

鎮火安心圖巻(部分) 画:鬼蔦斎畫圖 国立国会図書館デジタルコレクションより

鎮火安心圖巻(部分) 画:鬼蔦斎畫圖 国立国会図書館デジタルコレクションより

町火消の頭取クラスは江戸でも有名人として扱われ、また町火消の男たちは危険を顧みぬ度胸のよさと、火煙の中に飛び込んで人を助ける心意気を誇りとし、江戸の人々から親しまれました。

月百姿「烟中月」 画:月岡芳年 国立国会図書館デジタルコレクションより

月百姿「烟中月」 画:月岡芳年 国立国会図書館デジタルコレクションより

このように“自分の町は自分で守る”という意識が育まれ、町火消の存在は後の世にも意義のあるものになったのです。

闇を恐れる心

武家屋敷の火災はもちろん、延享4(1747)年には江戸城二之丸の火災にも出場して、定火消や大名火消にも勝るとも劣らぬ実力を示し、町火消全盛時代を築

「草木も眠る丑三つ時」とよく言いますが、江戸時代は一日の時間の流れを十二等分して、それぞれ“十二支”を当てはめていました。

以下の記事に詳しくご紹介しています。

太陽と月が生活基準。江戸時代の時刻を知れば江戸がもっと楽しくなる(上)

午前1時頃から午前3時頃までは「丑の刻」になります。この干支での時刻表記を約30分ごとに区切って“丑一つ”“丑二つ”“丑三つ”“丑四つ”といいました。これは他の刻でも同じです。

そして“丑三つ”時とは「丑の刻」の始まる時刻、午前1時頃から30分ごとに区切った3番目の時刻で“午前2時頃から午前2時半ごろ”です。

現代ならばいざ知らず、江戸時代のこの時間帯は真っ暗な闇夜のうえに人通りもなく、物音などしようものなら驚いて飛び上がりそうな怖さがあったでしょう。

この不気味な雰囲気がこの世とは別の世界、つまり「あの世」もしくは「死」を連想させるものであり、「あの世」の入り口が開き魔物や幽霊が現れると言われていました。

そしてまた“干支”は方角を表すものでもありました。

「子の刻」(午後11時から午前1時頃)を“北”とし、時計回りに方角が変化していきます。次は「丑の刻」(午前1時から午前3時頃)そして「寅の刻」(午前3時から午前5時頃)と進んでいき、次の「卯の刻」は“東”の方角を示します。

陰陽道ではこの「丑寅」の方角、つまり“北東”を【鬼門】という不吉な方角としています。また“丑の刻”と“寅の刻”の境である【午前3時】は鬼の出没する時間だと言われていました。

百物語 百物語 画:喜多川歌麿 ウィキペディアより

百物語 画:喜多川歌麿 ウィキペディアより

上掲の浮世絵は「百物語」の様子を描いています。「百物語」とは新月の夜の暗闇の中で、数人のグループで一人ずつ怪談話(因縁話や不思議な話でも可)をしていきます。100話目の怪談話が終わると、ついに本物の物の怪が現れるというものです。

これが江戸時代に大流行しましたが、「百物語」はあくまでも怖い話聞きたさの“遊び”であり、本当に物の怪が現れると困るので、99話で話をやめて朝を待つというものや、武士の“度胸試し”や“肝試し”として本当の「百物語」を行ったということもあったようです。

江戸時代の人々は歌舞伎や浄瑠璃・講談・書物や浮世絵などで、いくつもの怪談話に接する機会がありました。

また爆発的な江戸の人口増加は、地方から江戸への出稼ぎによるものでした。それらの人々がそれぞれの出身地に伝承される“不思議な話や妖怪の存在”などを話すことにより、江戸にその類の話が情報として蓄えられることになりました。

江戸は経済や文化の爛熟そして仏教の浸透により、人々は今までにないほど「幽霊」や「妖怪」・「地獄」や「鬼」を身近なものとして意識することになったのです。

江戸時代の人たちと自然との関係性

もともと江戸時代までの日本人は“太陽が昇るころから活動を始め、太陽が沈めば活動を終えて眠りにつく”というように、自然とともに生活してきました。

江戸時代に“時刻”という意識をもつ段階に至っても、その時刻は“太陽の昇るときと太陽が沈むとき”をベースにつくられたものです。

日本人は古来より森羅万象に神が宿ると信じてきました。神にも魂があり、その魂が和やかなときは、植物を実らせ人々に五穀豊穣を与えます。

しかし神の魂が荒ぶる時、それを“神の怒りにふれた”とか“神の祟り”と考え、人間にはどうすることもできない災厄などを起こすと考えたのです。

そこで人々は神の荒ぶる魂を収めるため「祭祀」つまり神を祀り、供え物をし、感謝の意を表して、五穀豊穣を祈り鎮魂をしたのです。

「妖怪」とは神の“荒ぶる魂”として祀ることをされなかったもの、認められなかったものが変じて「妖怪」となったと言われています。

例えば“河童”は妖怪のトップに思い浮かぶような存在ですが、実は“河童”は「水の神」の使いであるという説もあります。

まとめ

江戸時代の人達は、現代の日本人よりも自然の森羅万象に心を寄せ、自然に寄り添って生きていたと思われます。その感受性こそが江戸の人々の毎日の行動に影響を与えていたのでしょう。

これは日本人の美徳とも言えます。現在を生きる私達人間が、今や自然を脅かす存在になっていることを思うと、江戸に生きる人達の生き方を見直すことには価値があると言えるでしょう。

【完】

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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