想う相手はただひとり…精神的つながりも重んじる命をかけた武士同士の愛「衆道」【前編】 (2/3ページ)

Japaaan

当時、神職は死しても生前に使えていた神に仕えることとされ、神社ごとに神職を埋葬する場所が決まっていたために、二人を合葬したことが罪であった……と伝わりますが、同性愛の罪によるものとする説もあります。

「日本書記」以外にも、万葉集や伊勢物語、源氏物語などに「男色」の記載があり、当時は、宮中や寺院などで男色が流行していたと考えられるのです。

美少年・世阿弥に魅せられた将軍

 大日本名将鑑 足利義満公(月岡芳年画、ロサンゼルス・カウンティ美術館所蔵)(写真:wikipedia)

そして、武士の勢力が増してくると男色は武士の間にも広がるようになりました。

南北朝の合一や鹿苑寺(金閣寺)の建立した室町幕府3代将軍足利義満は、男色文化を取り入れたことで知られています。

義満は16歳の時、新熊野神社で行われた当時の能役者・観阿弥の興行を父と一緒に観に行った際、観阿弥の息子・世阿弥(11 歳)に出会い、その美少年ぶりにすっかり魅了されてしまいました。

そして、世阿弥を寵童として世阿弥一座を庇護するようになったのです。

当時、能役者の身分は非常に低いものでした。足利義満は祇園祭の桟敷席に世阿弥を招き、同じ器で酒を酌み交わしていたことは、周囲の人々に大きな衝撃を与えました。

「想う相手はただひとり…精神的つながりも重んじる命をかけた武士同士の愛「衆道」【前編】」のページです。デイリーニュースオンラインは、男色衆道カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る