青森や岩手を中心に東北地方に伝わる民間信仰の「隠し念仏」とは (3/4ページ)
信仰の自由が許された現代においてなお、隠し念仏が表に出ることはない。隠し念仏の一派と接触したクラーク・チルソン(ピッツバーグ大学)によると、秘密が破られると教えがたちまち堕落してしまうと彼らが信じているからだという。また、チルソンは排他性による選民意識を生み、組織内の統制力を高め、指導者たちの権威を守る効果があると指摘している。この指摘通りだとすれば、確かに念仏は万人に開かれているとする親鸞が認めるものではなく異端視されても仕方がない。しかし、それだけだろうか。
注:この辺りの事情は、福嶋崇雄 他「仏光寺 異端説の真相」白馬社(1990)に詳しい。
■東北の「光」
まじないや祈祷といった類を一切否定し、念仏のみを説いた浄土真宗=親鸞の教えは、無学な庶民にも理解・実践が容易な「易行」である。その一方で密教の護摩などに比べて地味で頼りないと感じる者もいたのではないか。つまり演出が足りないのである。演出はやはり重要だ。「オトリアゲ」の闇から光への演出は強烈であり、信仰は増々深められたことだろう。親鸞の教えに基づいて言うなら、阿弥陀仏は「尽十方無碍光如来」と呼ばれる通り、太陽を遥かに超えた光の存在である。念仏を唱え、阿弥陀仏を感得するなら、物理的な光の演出など必要ないのである。だからといって隠し念仏の信者を無下に異端とするのも不憫ではないか。雪に閉ざされる東北の冬に太陽の光は何より大切なものである。東北の人達にとって「光」とは阿弥陀仏の概念だけに収まるものではなかったのではないだろうか。
■東北の苦難と信仰
東北の歴史は苦難そのものである。大和朝廷から蛮族として扱われ支配を受け、天明の大飢饉など幾度の飢饉に襲われた。そして現代でも東日本大震災という悲劇が襲った。厳しい環境の中で懸命に生きてきた彼らの中で救いとなったのが信仰である。確かに浄土真宗の正統から見れば異端そのものかもしれない。それでも東北の庶民は郷土に長く根づいた独自の信仰に光を求めた。
隠し念仏の信者は表向きは曹洞宗や真言宗であったりして、葬儀もそれらの宗派で営まれるという。