武田信玄が戦国最強軍団を築けた秘密?それは、家臣の意見を採用する合議制にあった【前編】 (2/3ページ)

Japaaan

中には、隙あらば裏切りの機会を狙っている者や、敵から送り込まれた間者(スパイ)などもいたことが考えられます。そうした状況で、多くの家臣たちを交えて重要な事柄を話し合うのは、国の存続にもかかわる、とても危険な行為であったのです。

苦い経験を活かして合議制を採用

 重臣たちのクーデターで駿河今川家に追放された信玄の父信虎。(写真:wikipedia)

危険を冒してまでも、信玄が家臣たちの意見を尊重する合議制を採用したのには、家督相続時の苦い経験があったからでした。

信玄が誕生した1521(大永元)年頃は、甲斐国主でありながら武田家の力は盤石とはいえませんでした。信玄の父・信虎に対する家臣たちの忠誠心は薄く、家臣たちも内紛が絶えないという状況だったようです。信虎は強硬策に出て、自分の意に沿わない者たちを容赦なく処断したため、多くの家臣たちから反発を買っていました。

1541(天文10)年、ついに重臣たちを中心に信虎追放というクーデターが勃発します。そして、信玄を新たな国主に祭り上げたのです。こうした状況ですから、家臣団にまとまりがあるわけがなく、若き国主信玄は家臣たちの掌握に苦労し続けました。

その結果、家臣団を束ねるには、合議制を行い彼らの言い分に耳を傾けること。そして、領土拡大により、彼らの所領を増やし、保証することという結論にたどり着いたのです。

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