戦国最強の騎馬隊。武田軍の「赤備え」を組織した兄弟武将【後編】 (2/2ページ)

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部隊は騎馬を中心とする少数で組織され、自領の相続が叶わなかった各家の次男以下の者で編成された。当初、軍の中での位置付けとしては主に先駆け隊(切り込み部隊)であり、真紅の甲冑に身を包むことで敵の目を引き、武功を挙げることを目的としたという。

山県昌景(やまがた まさかげ)

山県昌景(Wikipediaより)

飯富虎昌の弟(他説あり)であり、信玄の元で武田四天王の一人とされた中心家臣である。兄である虎昌に勝るとも劣らない武勇を持つ人物で、信濃侵攻などの戦功により信玄の近習から侍大将へ抜擢され、1563年には譜代家老へ列せられた。

1565年。兄である虎昌が謀反を計画すると、身内でありながら信玄に兄の裏切りを密告したという。虎昌が謀反の責任を取る形で自害すると、兄から「赤備え」部隊を引き継いだ

昌景の赤備え部隊は武田軍の中でも最強の呼び声が高く、諸大名にも名声が轟いたという。赤備え部隊が精鋭部隊として認識されるようになったのは、昌景の指揮した「山県隊」の影響が強いと考えられている。

昌景自身は1575年の長篠の戦いで戦死した。虎昌が組織し、昌景が完成させた「赤備え」部隊は彼らの死後、後世の武将たちに引き継がれていく。

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