刀は武士の魂!映えや流行よりも実戦重視を訴えた武士道バイブル『葉隠』の教え

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刀は武士の魂!映えや流行よりも実戦重視を訴えた武士道バイブル『葉隠』の教え

一口に「武士」と言っても、時代によってその性質は大きく異なり、源平合戦の荒武者たちと、戦国時代の武将たち、そして江戸時代の藩士たちでは、これが同じ職業かと思えるほどに違いました。

かつて下克上の嵐が吹き荒れ、血で血を洗う戦国乱世も遠い昔のこととなりつつあった江戸時代、武士たちはその象徴である刀についてもお飾り的に扱いがちだったようです。

『葉隠』の作者・山本常朝(万治2・1659年生~ 享保4・1719年没)。Wikipediaより。

今回は武士道のバイブルとも言われる『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』より、若い武士たちへ刀の差し方について呈したアドバイスを紹介したいと思います。

刀を差すのは何のため?見映え重視の流行便乗に苦言

”五三 昔の人の刀は落(おと)しさしに仕(つかまつ)り候(そうろう)。今時刀のさし様吟味する人これなく候。柳生(やぎゅう。新陰)流に抜き出してさゝせ候由(そうろうよし)申し候。それを相伝(そうでん)もなく、何の了簡もなく、抜き出すを見習(みなろ)うて差し申し候と相見え候。直茂公、勝茂公も落しさしに遊ばされ候由。その時代手覚えのある衆は、皆落しさしに仕り候上(そうろううえ)は、利方(ききかた)よしと相見え候。先づ抜き出して不図(ふと)取られさうに思はれ候。光茂公、勝茂公の御差図(おさしず。お指図)にて、落しさしに遊ばされ候由。”

【意訳】
昔の人は刀を「落し差し(おとしざし)」に差していたものだが、今時は「刀などただ差してあればよい」とでも思っているのか、柳生流の差し方が流行っているらしい。

柳生流の心得があるでもなく、何の考えなしにただカッコいいからマネしているようにしか見えない。

佐賀藩の祖である鍋島直茂(なべしま なおしげ)公も、その嫡男たる初代藩主・鍋島勝茂(かつしげ)公も刀は落し差しになさっていたと言う。当時は心得のある者はみな落し差しにしており、より実戦的と見える。

一方、柳生流のあんな差し方では、ふと敵に刀を奪われてしまいそうではないか。

それで鍋島光茂(みつしげ。第2代藩主)公も、勝茂公の指図によって刀を落し差しになされたということだ……。

落し差しとは、刀を帯の上から下へ落とすように差す方法で、差した刀はおおむね直立します。

閂差しの刀。歩くには不便ながら、武士らしい威容が強調される(イメージ)。

一方の「柳生流に抜き出してさゝせ……」とは恐らく閂差し(かんぬきざし)のことで、刀がおおむね地面と平行するよう帯に固定して差します(主観ながら、刀が垂れ下がって見える落し差しよりもカッコいいです)。

敵を抜き打ち(抜刀と同時に攻撃)するのに適した差し方とのことですが、抜き打ち(柳生流)の心得もない者が形ばかり真似をしても、突き出した柄を敵にとられ、刀を奪われてしまうかも知れません。

(ましてや見栄えだけで刀の差し方を決めてしまうような考えなしの者であれば、なおさら隙だらけだったことでしょう)

片や落し差しは帯の一点だけで支えているため、状況に応じて抜刀時の鞘(さや)角度を変えることが可能なため(水平に抜かないと鞘の内側は傷つきますが)、常に臨戦態勢が求められた実戦向きと言えます。

柳生新陰流は慶長6年(1601年)に時の当主・柳生宗矩(やぎゅう むねのり)が徳川秀忠(とくがわ ひでただ。後に江戸幕府の第2代将軍)の兵法指南役となったことから流行したようです。

剣術とは異なり、戦場ではとにかく敵を倒すことこそ肝要。宝山寺所蔵「新陰流兵法目録事」より。

しかし刀はあくまで敵を倒して身を守り、主君へご奉公するために差すものですから、見映え以上に実用性が求められるのは言うまでもなく、刀の差し方ひとつとっても気を配ることが求められました。

安易な流行へ便乗しようとする若者たちに苦言を呈し、人生の道理や智慧を授けるのは老人の役目……作者(口述者)の山本常朝(やまもと じょうちょう)も、きっとそんな思いだったことでしょう。

※参考文献:
古川哲史ら校訂『葉隠 上』岩波文庫、2011年1月

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