日本仏教最大の革命児の法然 法然の以前以後で大きく異なる日本仏教 (2/4ページ)
■法然の主著「選択本願念仏集」
―もしそれ造像起塔をもって本願とすれば、貧窮困乏類は定んで往生の望を経たむ。しかも富貴の者は少なく、貧賤の者は甚だ多しー
もし仏像や寺院を建立することが仏の説く往生への道だとすれば、貧しい人たちは往生できない。そのようなことができる裕福な人は少なく、貧しい人は多いからである。
―もし智慧高才をもって本願とせば、愚鈍下智の者は定んで往生の望を経たむ。しかも智慧の者は少なく、愚痴の者は甚だ多しー
もし智慧や学才が仏の説く往生への道だとすれば、無知無学な貧しい人たちは往生できない。そのようなことができる学のある人は少なく、無知無学な人は多いからである。
法然は探す。名もなき民草が救われる道は無いのか。救いの教えを得るべく、5048巻と言われる仏教経典大全・一切経を5度読み返したという。そしてついに称名念仏の道を見出したのであった。
■当代一の知識人
法然は出世コースからは外れていたとはいえ、特権階級である僧侶の中でも「智慧第一」との名高い人物である。人は難しいことをありがたがるものだ。法然のような身分であれば、貴族相手に小難しい専門用語を並べ、深遠な仏教哲学を説く日々であったはずである。念仏だけで良いなどという単純な教えを至上であると言えるはずもない。そんな身分でいながら、誰でもできる「易行」という発想を持った法然の存在は歴史上の奇跡である。法然にとって仏教とは学問ではなく万人の救いの道であった。しかし慈悲と熱意だけではその後につながらない。当時最高の学識者に数えられる法然だからこそ、後進に受け継がれる称名念仏の普遍的理論を構築できたのである。
称名念仏をめぐっては比叡山時代の師・叡空(?〜1179)と苛烈な問答を交わし、称名念仏を受け入れられない叡空は木枕で法然を叩いたという。天台宗の本流に位置する僧侶・叡空にとって称名念仏の教えはあまりに過激、あまりに異端だった。しかしそれだけで師が弟子を叩くものではない。叡山において「智慧第一」と謳われた法然は論争・ディベートに長けていて、叡空も否応なしに論破され激昂したのかもしれない。