屈強・頑強・質実剛健!鎌倉武士の強さの秘密は栄養食にあった?

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屈強・頑強・質実剛健!鎌倉武士の強さの秘密は栄養食にあった?

「鎌倉武士」の強さと魅力

2022年のNHK大河ドラマは、平安末期から鎌倉幕府が成立するまでの過程を描いた「鎌倉殿の13人」になるようですね。

そういえば最近、エンタメ系の作品で、鎌倉武士や鎌倉時代が題材として使われているものが増えている気がします。

現在連載中の漫画『るろうに剣心』の北海道編では、鎌倉武士の末裔を名乗る集団が登場します。また週刊少年ジャンプで連載中の『逃げ上手の若君』は鎌倉末期が舞台です。

もちろん偶然の一致かも知れませんが、これほどまでにクリエイターの創作意欲を刺激する鎌倉武士や鎌倉時代という題材には、一体どんな魅力があるのでしょうか。

そのひとつに、「鎌倉武士はとても強かった」というのがあると思います。

実は鎌倉時代の武士たちは、まるで漫画の登場人物のような、筋肉ムキムキのレスラーのような屈強な男たちがそろっていたのです。

「強い男」は、いつの時代も男子の憧れ。今回は、そんな鎌倉武士たちの強さの秘密を探りたいと思います。

スーパー健康食「玄米」でいざ鎌倉!

平家を倒した源頼朝は、武士(御家人)が華美な生活によって貴族化することを警戒していました。その意味で平家を「悪い例」として考えていたからです。

wikipedia『伝源頼朝像』

そこで京都から離れた鎌倉の地に幕府を開き、武家政権の土台を強固にするための政策を打ち立てていきました。

そうした方針は、執権の北条時政や時頼によっても徹底されていきます。

さて、鎌倉幕府のポリシーはつまり「質実剛健」にあったわけですが、鎌倉の材木座から発掘された鎌倉時代の人骨には、当時の人々がそのポリシーを貫いていた痕跡が残っていました(ちなみに材木座海岸や由比ヶ浜は、かつて火葬場や処刑場だったとされ、昔の人骨が今でも出てくることがあるとか)。

それらの人骨のうち、男性のものは、ほとんどが武士のものと推測されています。そして彼らの大腿骨は、現代人のものよりも太くてがっしりとしていいました。

当時の男性の平均身長は159センチ(ちなみに女性は145センチ)。今から見れば体躯としては小柄ですが、それでも戦国時代の男性は平均身長157センチとされているので、まだ鎌倉武士の方が頑強です。

そしてその体躯で重い武具をつけて完全武装し、弓を射たり、大太刀を振るって戦うのですから、これはレスラー並みの体力がなければやっていけませんでした。

では、そんな鎌倉武士の頑強さを支えたのは何だったのでしょうか。

それは、何よりもまず「玄米」でした。

鎌倉武士の主食は、一日に「玄米を五合」が基本でした。彼ら武人の食事というのは、基本的には朝と夕の一日二回食です。朝に二合五勺を食べ、夕食として残りの二合五勺を採っていました。武士のこうした食事形態は江戸時代の初期まで続いています。

玄米といえば、ほぼ完全栄養食と言っても過言ではありません。

白米と比べた場合、タンパク質や資質が多く含まれているほか、食物繊維やビタミンB1は約10倍です。玄米五合分のカロリーは約2400カロリーで、これだけでも現代日本人の成人男性の摂取カロリーと同じだとされています。

その上、やわらかい白米と、固い玄米とでは、脳に与えられる刺激が雲泥の差です。

固いものを噛む習慣を身に付けると、意志の強さや集中力が鍛えられるとされています。ここ一番の時に――もちろん鎌倉武士にとっては「いざ鎌倉」の時に――頑張りが効く体質になるのです。

そしてこの玄米食を基本にして、和食の基本である「一汁一莱」の習慣ができあがります。この食事スタイルも、突き詰めていくと鎌倉武士によって完成されたものなのです。

また、鎌倉は海が近いことから、イワシやアジなどを多く食べる機会もあったことでしょう。これらの魚は干物にすると頭ごと食べられますし、太い骨格を維持するためのカルシウムの供給源としてもピッタリです。

極めつけの梅干しパワーで一騎当千

さらに、鎌倉時代の『世俗立要集』によれば、鎌倉武士の膳には「梅干し」が用いられていたそうです。

これも注目に値します。梅干しの酸味には、疲労物質である乳酸を分解し、排除する作用があります。また殺菌作用や血液浄化の働きもあるので、自然治癒力や病気に対する抵抗力がアップするのです。

少しでも健康食のことを調べたことがある人なら、この鎌倉武士の「玄米飯、一汁一菜、梅干し」という献立の完璧さにはため息をつくのではないでしょうか。

ちなみに、『平家物語』にこんなエピソードがあります。鎌倉幕府が開かれるよりも前の1183(寿永2)年、平氏一族を放逐して京の町に入った木曽義仲の陣所に、朝廷の使者がやってきました。

この使者は、公家の猫間中納言光隆。ちょうど食事時だったので、義仲は、光隆に料理を出すように命じます。

この時のメニューというのが、山盛りのご飯に三種類のおかず、ヒラタケの汁というものでした。ところが、光隆は食器の汚さに辟易して、我慢して食べるふりだけをしてさっさと帰ってしまったのです。

このあたりから既に、武士と公家の「食」に対する考え方や感性の違いははっきりしていたのでしょう。

歴史的に見れば、これが、貴族化した平家一門と鎌倉武士たちの大きな違いでした。平家が白米中心の贅沢な献立を主としていたのに対し、鎌倉武士たちの献立は簡素かつ栄養満点、まさに「質実剛健」。これが彼らの一騎当千の底力を支えていたのです。

参考資料

永山久夫『イラスト版たべもの日本史』(1998年・河出書房新社) 学ぶ・教える.COM「平家物語 – 巻第八・猫間 『ある時、猫間中納言光隆卿といふ人…』 (原文・現代語訳)」 和樂web 日本文化の入り口マガジン「鎌倉時代へ時を戻そう。人骨もみつかる、かつての最恐スポット「由比ヶ浜」の歴史」

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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