日本一小さな大名?徳川家康さえ一目置いた、喜連川藩の歴史を紹介! (2/5ページ)
やがて秀吉が亡くなって慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦では西軍にも東軍にもつきませんでしたが、勝利した徳川家康(とくがわ いえやす)にお祝いの使者を派遣したことを評価され、論功行賞によって慶長7年(1602年)に1,000石を加増されました。
「源氏長者(げんじちょうじゃ。源氏の棟梁)となった以上は、かつての長者に失礼はできませぬ」
慶長8年(1603年)に征夷大将軍=源氏の棟梁として江戸幕府を開いた家康は、足利の家柄を尊重して幕藩体制(※幕府と諸藩の主従関係)の例外として認めます。
「徳川様より身に余るご配慮、恐縮にはございますが、天下の秩序を保つためとあらば、謹んでお受け致しまする」
とは言え、徳川家に対して遠慮があったのか、苗字を足利から地名の喜連川に改めた頼氏は、石高は4,500石のまま大名並みの待遇で喜連川藩の初代藩主となったのでした。
あの家康が、ただの善意や家柄だけで、特別扱いはしないはずだが……?
めでたしめでたし……なのですが、あの家康が(現代よりも道理や筋目を重んじる時代だったとは言え)家柄だけを尊重したとは考えにくいと感じるのは筆者だけではない筈です。
前の棟梁を重んじることで、言わば「禅譲(ぜんじょう。