15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その3】

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15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その3】

鳥羽伏見の戦い維新政府軍の勝利で終わり、旧幕府軍は大坂城における徹底抗戦で起死回生を図る。

しかし、慶喜は僅かな人々を伴い、1月6日の夜、突然大坂城を脱出。海路、江戸に逃げ帰り、その後は恭順謹慎に徹した。

前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その1】

今回はその後日談として、慶喜とともに大坂城を脱出した人々慶喜東帰に関わった人々その後の人生をどのように送ったか、その人現模様を紹介する。

【その3】では、恭順謹慎を良しとせず、維新政府軍と抗戦した人々、さらに大坂城に残留した人々のその後の生涯を追ってみた。

前回の記事

15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その2】

恭順を良しとせず、維新政府と戦った人々 【松平容保 ~会津若松で1か月にわたる過酷な籠城戦を戦う~】

 甲冑姿の松平容保。(写真:Wikipedia)

旧幕府側の人物としては、誰よりも苦渋に満ちた人生を歩んだのが、松平容保といえるだろう。

江戸東帰後の容保は、慶喜に倣い恭順謹慎を行った。そして、維新政府に対し嘆願書を提出。仙台・米沢藩などの奥羽諸藩も、会津藩の許しを請う嘆願書を出したが、維新政府はことごとく無視した。

維新政府は、どうしても容保と会津藩を抹殺したかったのであろう。

これにより、藩内に渦巻いていた主戦派の怒りは頂点に達し、会津戦争が勃発。前後して、奥羽越列藩同盟の諸藩を巻き込んでの戊辰戦争に発展した。

容保と会津藩は、会津若松城で1か月以上にわたり、4万名近い維新政府軍の猛攻を凌いだが、力尽きて降伏した。その間、約3千名の藩士2百人以上の婦女子が、この戦争で犠牲になった

家老・萱野権兵衛が全責任を背負い自尽の上、一命を救われた容保は、和歌山藩などに預けられた後、維新後5年になる1872(明治4)年に赦され、江戸で暮らした。その後、日光東照宮宮司などを歴任し、1893(明治26)年、59歳で没した。

【松平定敬 ~会津戦争・函館戦争・西南戦争を歴戦~】

 本領桑名に戻れず、会津・函館・九州と戦い続けた。(写真:Wikipedia)

江戸東帰後、本領桑名へ戻ろうとするも、維新政府への恭順に決した桑名へは戻れなかった。そのため、飛び領地の柏崎を経て、実兄である松平容保と会津で合流した。

会津戦争が始まると、容保の依頼で米沢へ援軍要請に走り、会津降伏後に仙台で榎本武揚の旧幕府艦隊に合流、函館に移り、函館戦争を戦った

函館戦争終結前に、アメリカ船で上海に亡命するも生活に窮し帰国、1872(明治4)年に赦免された。その後、英語を学びアメリカに留学、西南戦争に旧桑名藩士を率いて従軍するなど、波乱に富んだ人生を歩んだ。1908(明治41)年、61歳で没した。

【板倉勝静 ~筆頭老中としての享受を全うする~】

 幕府最後の筆頭老中。東北・函館と戦い抜いた(写真:Wikipedia)

従来温厚な性格であったが、開陽丸において慶喜から恭順謹慎の意志を打ち明けられた時には、色を成して反発したという。

維新政府により、江戸から宇都宮藩に移されたが、宇都宮戦争で大鳥圭介率いる伝習隊により解放された。その後、奥羽越列藩同盟の参謀を務め、さらに函館の五稜郭で抵抗を続けた。

これを知った維新政府は松山藩を圧迫したため、家臣が函館に赴き、強制的に東京へ連れ戻した。自首した勝静は、上野安中藩で終身禁固刑に処せられた。

1872(明治5)年、特赦により赦免。晩年には、第八十六国立銀行、現在の中国銀行を設立するなどした。

大坂城で浅野氏祐に「責任は自分にあり、どんな責めも甘んじて受ける」と語ったことを実践した人生だった。1889(明治22)年、東京の私邸で没した。享年66歳。

【榎本道章 ~函館政権の会計奉行を務める~】

一橋家目付として、慶喜の将軍就任に尽力したこともあり、大坂城脱出に同行した。しかし、榎本武揚麾下の旧幕府艦隊の脱走に身を投じ、蝦夷地に渡った。

函館政権では、会計奉行を務めた。降伏の後、1870(明治3)年、開拓使に出仕した。1882(明治15)年没、享年48歳。

大坂城に残った人々のその後とは 【永井尚志 ~恭順派の代表であったが、函館戦争に参加~】

 慶喜の誘いを固辞し大坂城に残る。函館戦争で降伏した。(写真:Wikipedia)

慶喜側近の中でも、恭順論の代表的な立場にあった。しかし、大坂城退去の折、慶喜から供を命じられるものの固辞し大坂城に残った

その理由を浅野氏祐に次のように語ったという。

●松平正質の帰還を待ち、鳥羽・伏見の敗戦理由を明らかにすること。

●その上で、大坂城に残る幕閣一同で維新政府軍に抗戦し、全員が討死すること。

●そうすることで、鳥羽・伏見の戦いが慶喜の本意でないことを示す。

江戸帰還後は、恭順とは正反対に、榎本武揚と行動をともにし、函館政権では函館奉行を務めた。

函館戦争に突入すると、五稜郭守備の要衝・弁天台場を守備したが、函館政権の中では最初に降伏した。降伏後は、五稜郭に籠る榎本に、頻りに降伏を勧告したともいう。1872(明治5)年、赦されて維新政府に出仕。1891(明治24)年、76歳で没した。

【松平(大河内)正質 ~徹底恭順に徹し、貴族院議員を務める~】

 鳥羽・伏見の戦いにおける総督。東帰後はひたすら恭順に徹する。(写真:Wikipedia)

鳥羽・伏見の戦いでは、総督として旧幕府軍の指揮にあたった。慶喜大坂城退去時点では、まだ前線に滞在。しかし、副総督の塚原、陸軍奉行の竹中とともに、慶喜からは大坂城に残るよう命じられた。

これは、暗に旧幕府軍の責任者として、敗戦の責任を取り自尽するように慶喜が仕向けたとの説もある。だが、3人ともその意を介さず、あるいは従わずに江戸に戻っている。

江戸帰還後は、所領の大多喜に帰国、円照寺で謹慎した。さらに、維新政府に大多喜城を明け渡し、佐倉藩に預けられた。その後、まもなく所領を回復、官位も復位する。

旧幕府軍の総督でありながら、寛容な処置を受けたのは、速やかに城を開城したこと、旧幕府勢力からの勧誘に乗らずにひたすら恭順したことが評価されたとされる。

1869(明治2)年、大多喜藩知事に就任。1871(明治4)年からは、兵部省・宮内省などに出仕し、子爵に叙爵。その後、麹町区長、貴族院議員を務め、1901(明治34)年に没した。享年57歳。

【塚原昌義 ~30か月にもおよぶアメリカ亡命の末、帰国~】

鳥羽・伏見の戦いの後、アメリカに渡り、約30か月の間、亡命生活を送った。1870(明治3)年、帰国しアメリカ領事館に匿われたが、翌年に自首した。

1872(明治5)年、赦免され、武田昌次と名を改め、維新政府に出仕した。その後、産業畑で活躍、コーヒー栽培などの研究で小笠原諸島に渡った。没年は不詳。

【竹中重固 ~上野・奥羽・函館を転戦。降伏後は殖産事業に尽力~】

 最後まで戦い続けた名軍師竹中半兵衛の子孫。(写真:Wikipedia)

江戸に戻った後、純忠隊を結成し、彰義隊とともに上野で維新政府軍と戦う。上野戦争敗退後は、奥羽各地を転戦、函館政権では海陸裁判所頭取を務めた。

函館戦争終結後に、東京に戻り投稿、福岡藩・竹中家預かりとなる。1871(明治4)年に北海道入植。一時、東京府に出仕したが、辞職後は殖産事業に尽力した。1891(明治24)年、64歳で没した。

全3回にわたり、「徳川慶喜・敵前逃亡の後日談」として、慶喜の大坂城脱出に深く関わった人々のその後の人生を紹介してきた。

その人生は、鳥羽・伏見や戊辰戦争で勝利した維新政府の人々と比べると、些細な存在なのかもしれない。しかし、その多くは、明治という激動の時代の中で、精一杯の後半生を歩んだのは確かであった。

また一方で、彼らの中で、一人も戦没者・刑死者がいないという事実もある。鳥羽・伏見、戊辰戦争での旧幕府側戦没者は8,500人以上といわれる(他説あり)。これを踏まえた彼らの歴史的評価は、再考すべきものがあるかもしれない。

3回にわたり、お付き合いいただき、ありがとうございました。

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