大河ドラマ「青天を衝け」で渋沢栄一の人生を変えた男・平岡円四郎の生涯

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大河ドラマ「青天を衝け」で渋沢栄一の人生を変えた男・平岡円四郎の生涯

大河ドラマ「青天を衝け」に登場する平岡円四郎(ひらおか えんしろう)。

堤真一さん演じる円四郎は、旗本の息子でありながら放蕩無頼の生活を送っていたところ、後に江戸幕府の第15代将軍となる徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)の小姓となったことから才覚を発揮。

そのころ、尊皇攘夷に燃えていた若き志士・渋沢栄一(しぶさわ えいいち。主人公)と出逢い、栄一の人生に大きな影響を与える……という設定ですが、実際のところはどうだったのでしょうか。

また、円四郎の妻・やすについても気になるところ……そこで今回は幕末に活躍した平岡円四郎の生涯をたどってみたいと思います。

徳川慶喜に仕え、不遇の時代を乗り越える

円四郎は江戸時代末期の文政5年(1822年)10月7日、旗本である岡本忠次郎(おかもと ちゅうじろう)の子として生まれ、同じく旗本であった平岡文次郎(ひらおか ぶんじろう)の養子に出されます。

幼少のころから利発だったようで藤田東湖(ふじた とうこ)や川路聖謨(かわじ としあきら)と言った高名な学識者に見込まれたと言います。

若き日の徳川慶喜(松平昭致)。Wikipediaより。

そんな円四郎が26歳となった弘化4年(1847年)、松平昭致(まつだいら あきむね。後の徳川慶喜)が徳川御三卿(ごさんきょう。御三家に次ぐ家格)の一つである一橋(ひとつばし)家を継承した時に小姓として推薦され、傍近く仕えました。

安政5年(1858年)に徳川将軍家の跡目争いが起こった際には家老の中根長十郎(なかね ちょうじゅうろう)と共に慶喜を将軍にするべく根回しに奔走したものの、結局将軍の座は徳川慶福(よしとみ。後の徳川家茂)に奪われてしまいます。

しかも直後に起きた「安政の大獄(あんせいのたいごく)」では、大老の井伊直弼(いい なおすけ)から(よほど熱心に根回し活動をしていたためか)一橋家の過激人物として警戒され、左遷の処分を受けてしまいました。

甲府勝手小普請(こうふかってこぶしん)として甲斐国(現:山梨県)へ飛ばされた円四郎は、飼い殺し状態で不遇の日々を耐え過ごし、慶喜が家茂の後見人(将軍後見職)となった文久2年(1862年)、許されて江戸へ戻ります。

公武合体を主導し「天下の権」を握った?円四郎

苦しい時期を乗り越え、忠節を貫いた円四郎は慶喜の信頼を勝ち取り、文久3年(1863年)に慶喜が上洛し、将軍家茂の名代として朝廷と公武合体および攘夷の決行について協議した際も大いに貢献。その活躍ぶりは人々から

「天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川に在り」

【意訳】天下を治める権力は朝廷が持つべきところを幕府が握っており、いや、幕府でなく一橋(慶喜)が、いや、一橋でなく平岡円四郎と黒川嘉兵衛(くろかわ かへゑ。慶喜の家臣)が握っているのだ。

……などと噂されるほどでした。

ちなみに、このころ攘夷計画(横浜外国人居留地の焼き討ち)を断念して京都へやって来たものの、尊皇攘夷派の衰退によって活動に行き詰まっていた栄一を慶喜に仕えるよう説得。彼の運命を大きく変えることになります。

焼き討ち計画を練っていた栄一たち。もしこのまま決行していたら……?(イメージ)

そんな円四郎ですが、京都で朝廷と幕府の融合を図る公武合体に反対する者の怨みを買い、元治元年(1864年)6月16日、水戸藩士の江幡広光(えばた ひろみつ)、林忠五郎(はやし ちゅうごろう)らによって暗殺されてしまいました。

「公武合体などと、畏れ多くも君臣の義(主君である朝廷と、家臣である幕府との守るべき一線)を侵す不届き者に天誅じゃ!」

尊皇思想の強い水戸藩では、朝廷と幕府が一体≒同列になって日本のかじ取りをするという発想自体が許せなかった(あくまで朝廷の権威に基づき、幕府が世俗の権力を行使する構造を理想とした)のかも知れません。

かくして志半ばに命を落とした円四郎は享年43歳。つい2週間前(6月2日)近江守の官職に叙任され、ますますの活躍を期待されていた矢先の不幸でした。

終わりに

「私を一橋家に推薦して慶喜公に御仕へ申すやうにして呉れた人は平岡円四郎であるが、この人は全く以て一を聞いて十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。然し、斯る性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角他人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往々にして非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。平岡が水戸浪士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無からうかとも思ふ。」
デジタル版「実験論語処世談」平岡円四郎と藤田小四郎

【意訳】
私を徳川慶喜に推薦してくれた平岡さんは「1を聞いて10を知る」天才肌で、客が来たらその顔色を見るだけで用件を察してしまうほどだった。
ただし、こういうタイプはあまりに先が見通せてしまうものだから、それがかえって嫌味になって人から嫌われ、往々にして非業の最期を遂げるものだ。
平岡さんが水戸浪士に暗殺されてしまったのも、そうした才智におごってしまった結果じゃないかと思う。

円四郎について、渋沢栄一はかく語りき。Wikipediaより。

……要するに「優秀過ぎて嫌味になり、人から嫌われて不幸な最期を遂げる」という教訓をもって語られた円四郎の生涯は、渋沢さんらしく淡々とバッサリ批評されています。

しかし、そんなクセのあるキャラクターも平岡円四郎の持ち味であり、晩年の渋沢さんみたいに万事調和した人格者よりも、よほど見ていて面白いというもの。

大河ドラマ「青天を衝け」ではどんな円四郎がどんな活躍を魅せてくれるのか、堤真一さんの好演に期待したいですね!

※参考文献:
朝日新聞社 編『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年11月
小貫修一郎 筆『渋沢栄一自叙伝』渋沢翁頌徳会、1938年2月

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