幕末の志士たちを震え上がらせた新撰組!10人の組長たちの終焉【前編】 (2/3ページ)
晩年は小樽で悠々自適の生活を送ります。大正4年に77歳で病没しました。永倉は新撰組の語り部として「浪士文久報国記事」を書き残し、回顧録を「小樽新聞」に連載し「新撰組顛末記」として出版。また、東京板橋に新撰組の慰霊碑も建立。新撰組の汚名返上に尽力したのです。
斎藤一 三番隊組長沖田や永倉と並ぶ新撰組の剣の遣い手であった斎藤一は、新撰組の創立期に入隊しました。沖田や永倉と同じく撃剣師範として3番隊組を率いています。流派は「無外流」。しかし、その他のことは未だ謎だらけです。新撰組では戦いの最前線にその身を置き、幾多の修羅場をくぐり抜けました。任務に忠実でスパイ活動も。会津では、新撰組隊長として土方と別れて会津に残り戦い続けました。
斎藤一の終焉会津落城後は、警視局に警部補として就職。その後結婚し3人の子供にも恵まれます。近年斎藤一の晩年の写真が見つかりました。晩年になっても衰えない眼光の鋭さが印象的です。
胃潰瘍のため71歳でその生涯を閉じましたが、死の間際を悟り正座をして絶命したそうです。研究者の間では、子母澤寛の「新選組遺聞」の記述にある斎藤一口述の「夢禄」の発見が大いに待たれています。
松原忠司 四番隊組長柔術師範として四番隊組長を務めた松原忠司。自身で創設した流派の北辰心要流柔術を操るほど柔術家として凄腕の持ち主で、新撰組の前身である浪士組の時に入隊した古参の隊士です。性格は温厚で、池田屋事件や八月十八日の政変(尊王攘夷派の公家と長州藩を朝廷から追放したクーデター)での活躍が記録に残っています。