幕末秘話。日本とロシアが一触即発の危機に!樺太などの北方を守った会津藩 【後編】 (3/4ページ)
(写真:Wikipedia)
北方警備が会津藩にもたらしたもの
本営の地となる樺太のクシュンコタンに到着した藩兵745名は、1か月弱で陣屋を構築します。クシュンコタンは、前年にロシアに襲われ、番屋などが焼かれ、残骸が残るのみでした。
ここは、文字通りの最前線であったのです。会津藩士達は、来るべくロシアとの戦闘に備え、度々、実戦的な大演習を行い、監督のために同行していた幕府役人を感嘆させたと伝わります。
会津藩兵の滞在期間は、7月7日まで続きました。その間、ついにロシア軍は姿を見せませんでした。それは、この当時、ロシアはヨーロッパ戦線でフランスのナポレオンと激戦を繰り広げていたため、樺太どころの話しではなかったのです。
樺太の短い夏が終わるころ、ロシア来襲の恐れがなくなったことから、会津藩による北方警備の任は解かれました。その頃になると、樺太在住のアイヌ人達と会津藩士との間には良好な関係が築かれていました。
会津人の持つ規律正しさ、ぼくとつながら人情の深さなどが、アイヌの人々の掴んだのでしょう。別れの日、多くのアイヌ人たちが船出する会津船を追って海岸線を走って名残を惜しんだとの話が残っています。