戦国きっての勇将・島左近の墓が京都西陣にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【前編】
旅や歴史についての執筆が多い筆者が、取材などの途中で見つけた隠れた歴史スポットを紹介します。
戦国時代末期に石田三成の重臣として活躍し、関ケ原の戦いで散ったとされる島左近。今回は、その左近を土葬したと伝わる京都西陣・立本寺の墓について取り上げましょう!
まずは【前編】で、島左近とはどのような人物かを紹介します。この記事が、少しでも皆さんの歴史探訪の旅の参考になれば幸いです。
戦国きっての勇将と謳われた島左近
浮世絵に描かれた島左近。(写真:太平記英勇伝 嶋左近友之図)
歴史ファンであるならば、島左近の名を知らない人はまずいないでしょう。
左近とは通称で、本名は島清興(しま きよおき)。戦国時代末期の武将で石田三成の家臣です。元々は、大和国の戦国大名筒井氏の家臣でしたが、後に三顧の礼をもって、三成に迎えられます。
石田三成が近江水口で4万石の大名になったとき、その半分の石高2万石をもって、島左近を召し抱えたということ。それほど左近が武将として優れた人であったというわけです。
このような破格の待遇から、
三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城。
(『古今武家盛衰記』)
と謳われたといいます。
石田家に仕官した左近は三成の恩情に応え、重臣として活躍します。
正式な記録の残っているものとしては、1590(天正18)年の小田原征伐の際には、常陸国の佐竹氏との外交交渉や佐和山領内の年貢徴収の管理など、武将としてだけでなく行政官としても重要な役割を果たしたようです。
関ケ原で勇戦するも消息不明に関ケ原に復元された笹尾山の石田三成陣地。(写真:Wikipedia)
1600(慶長5)年、天下分け目の戦いと称される関ケ原の合戦が起こりました。島左近の主・石田三成は、実質上の西軍総大将として、東軍を率い天下取りを狙う徳川家康と戦ったのです。
左近は、この戦いで武将としての力量を遺憾なく発揮します。関ケ原の戦いの前哨戦である杭瀬川の戦いでは、わずか500の兵で、東軍の中村軍・有馬軍を相手に見事勝利をあげました。
本戦においても、石田三成隊の先手大将として、攻め寄せる東軍諸隊を向こうに回して勇戦します。味方が危ういと感じた東軍の黒田長政は、先頭に立ち指揮を執る左近を狙い、側面からの射撃を命じました。
黒田隊の猛烈な射撃を浴びた左近は重傷を負い、緒戦の内に石田隊陣内へ運び込まれました。
左近が負傷したことで、勢いづいた東軍は、三成の本陣に押し寄せます。それを察した左近は、傷の手当てもそこそこに、血槍を振り回し、再度最前線へ突入。怒涛の勢いで迫りくる東軍の大軍の中に、飲み込まれてしまったのです。
それから先、左近の姿は戦場から忽然と消えてしまいました。乱戦の中、銃弾に斃れたとも、西国に落ちていったとも、様々な推測が流れましたが、その後、誰もその姿を見た者はいなかったのです。
ただ、左近の戦いぶりを見た東軍の将士達は、夢の中に現れ「かかれ!」と戦場を震わすほどの大音声で叫ぶ左近の幻に悩まされたといいます。
左近の戦いぶりは「鬼神も欺く」と称されたほど恐ろしいもので、その姿にうなされる者が続出したということでした。
笹尾山麓の島左近陣跡。東軍との最前線だった。(写真:関ケ原観光協会)
【後編】は、京都西陣にある島左近の墓を紹介しましょう。
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