部下のためなら馬糞くらい…武士道バイブル『葉隠』が伝える戦国武将・甘利信忠の将器

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部下のためなら馬糞くらい…武士道バイブル『葉隠』が伝える戦国武将・甘利信忠の将器

戦場で出血が止まらない時は、葦毛(あしげ)馬の馬糞を煮て飲むとよい……『雑兵物語』などで有名なこの治療法、本当に効くのでしょうか。

また、仮に効いたとして、いくら「命あっての物種」とは言っても、武士たちは馬糞の煮汁を服用することに抵抗感はなかったのでしょうか。

戦場での応急医療現場。左端の男(夫丸 茂助)が葦毛馬の糞を煮ている。『雑兵物語』より

今回はそんな実例として、江戸時代の武士道バイブル葉隠(はがくれ。葉隠聞書)より戦国武将・甘利信忠(あまり のぶただ。藤蔵)のエピソードを紹介したいと思います。

名誉ある死も立派だが……

一五八 信玄家中甘梨(甘利)備前守討死、子藤蔵十八歳、與力元の如く附けられ候。組内何がし深手を負ひ血とまらず、藤蔵下知にて、葦毛馬の糞を水にたてのませ候處、「命惜しとて馬糞を呑むべきや。」と申す。藤蔵聞いて、「あつぱれ勇士かな。尤もなり。されども大事の戦場なれば、命を全うして主君に勝ちを取らせてこそ忠臣の本意なれ。いざ我呑みて遣はすべし。」とて、自身呑みかけ附差しせられければ、忝しとて服用し、本復せしとなり。
※『葉隠』巻第十より

【意訳】
武田信玄(たけだ しんげん)の部将・甘利備前守虎泰(あまり びぜんのかみ とらやす)が討死した際、その子である藤蔵(信忠)は当時十八歳の若武者ながら、父の与力たちを元通りに束ね上げた。
その配下(組の内)の者が戦闘で重傷を負ってしまい、治療しても出血が止まらない。藤蔵は古老の知恵を思い出し、葦毛馬の馬糞を煮て飲ませるように指示。
果たして煮上がったところ、その者は「命惜しさに馬糞の煮汁を飲んだとあれば、後世の物笑いとなりましょう」などと言って拒絶する。
藤蔵はその言葉を聞いて「流石あっぱれな勇士だけに、言うことは道理である。しかしここは戦さ場であるから、名誉ある討死よりも、生きて御屋形様に勝利を奉げることこそ忠臣の務めと言えよう。まずはわしが飲んでみせるから、そなたも早う飲んで傷を治すのじゃ」と、半分ほど飲んで残りを渡すと、その者も飲んでやがて回復したという。

この話が実話だとすると、甘利虎泰(とらやす)が討死したのは天文17年(1548年)の上田原合戦ですから、当時18歳の藤蔵は遡って享禄4年(1531年)生まれとなります。

現代なら18歳と言えば(法律上はともかく)子供にしか見えませんが、当時は13~15歳で元服、とうに初陣を飾って数々の修羅場をくぐり抜けていてもおかしくない年齢ですから、若くして父が遺した家臣団を束ね上げる将器を備え上げていたのでしょう。

葦毛馬の糞がよいらしいが、鹿毛馬のでは駄目なのか。Wikipediaより

重傷を負って死にかけている家臣を前に冷静な判断を下し、馬糞の煮汁を遠回しに嫌がるのを否定することなく「馬糞を飲むくらいなら死んだ方がマシだと言う、その心意気はあっぱれである」と共感した上で「しかし、生きて主君に勝利を奉げてこそ忠臣の本懐」と説得。

さらには(普通は飲みたくない)馬糞の煮汁を「さぁ飲め」と押しつけるではなく、「自分も飲むのだから恥ではないぞ」とまずは自分が率先して飲んで見せる心遣い。

現代人を見る限り、たとえ40~50代でも、ここまでの思いやりを示せる人はなかなか見かけません。

「んっ……ぐふぉっ……ぐぶぅ……っ!」

殺菌のためとは言え、加熱することでより悪臭が強まり、むせ返る思いだったでしょうが、これも亡き父上から受け継いだ、大切な部下を守るため……必死の思いで煮汁を飲む藤蔵の姿に、みな奮い立ったことでしょう。

終わりに

甘利信忠。歌川国芳「甲越勇將傳武田家廾四將 甘利左門尉晴吉」

部下を思ってキレイゴトなら誰でも言えます。しかし、部下のために身をもってヨゴレゴトを実践するのは、なかなか出来るものではありません。

しかし、そういう場面をこそ部下たちは見ているもので、馬糞の煮汁を飲まないまでも、みんなのために身体を張る心意気こそ、リーダーに求められていることを教えてくれるエピソードでした。

※参考文献:
古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年6月
中村通夫ら『雑兵物語 おあむ物語 附おきく物語』岩波文庫、1943年5月

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