戦国きっての勇将・島左近の墓が京都西陣にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【後編】

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戦国きっての勇将・島左近の墓が京都西陣にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【後編】

旅や歴史についての執筆が多い筆者が、取材などの途中で見つけた隠れた歴史スポットを紹介します。

戦国時代末期に石田三成の重臣として活躍し、関ケ原の戦いで散ったとされる島左近。その左近を土葬したと伝わる京都西陣・立本寺の墓について取り上げます。

【後編】では、立本寺の境内墓地にある島左近のお墓を紹介しましょう。この記事が、少しでも皆さんの歴史探訪の旅の参考になれば幸いです。

前回の記事

戦国きっての勇将・島左近の墓が京都西陣にあった!旅で見つけた隠れ歴史スポット【前編】

歴史の宝庫・京都西陣

京都西陣を代表する神社・北野天満宮。(写真:T.TAKANO)

筆者に「島左近のお墓が立本寺の墓地にあるよ」と教えてくれたのは、北野天満宮近く、明治から続く豆腐店[とようけ屋山本]の三代目ご主人でした。

ご主人には、地元西陣にまつわる様々な情報を教えていただき、京都関係の著書執筆の際や西陣散策の折の参考にさせていただいています。

コロナ過で、あまり京都に出向けない昨今ですが、少し落ち着いたら出来立ての美味しいお豆腐を求めに、お店に伺いたいものですね。

応仁の乱の際、西軍を率いる山名宗全が本陣をおいたことから、その名が付いた西陣。しかし、この地は平安京成立直後から重要な地であったのです。

そうしたことから、西陣は様々な寺社・史跡・旧跡などが集まる歴史の宝庫と呼ぶにふさわしい場所です。京都にお出かけの際には、1日をかけてじっくりと巡っていただきたいと思います。

「とようけ屋山本」さんの他にも、西陣には京都グルメがたくさん。京都の伝統を感じられる美味しいものが味わえるも、西陣の大きな魅力です。

とようけ屋山本直営の「とようけ茶屋」の名物・生湯葉丼。(写真:T.TAKANO)

立本寺にある島左近の墓

立本寺の境外墓地に立つ島左近の墓。(写真:T.TAKANO)

立本寺はとても由緒ある寺院。日蓮宗一致派の本山で、日蓮の弟子・日像の戧建した妙顕寺を起源とします。お寺の伝承など大変興味深いものがたくさんありますので、いつかご紹介したいと思います。

そんな、立本寺の境外墓地にあるのが、島左近の墓です

その墓石には「妙法院殿嶋左近源友之大神儀 寛永九壬申年六月二六日歿」と明記され、台座には土葬と記されています。

伝承によれば、関ケ原の戦場を逃れた島左近は、立本寺の塔頭・教法院の寺男として住みつき、32年後に没したそうです。

日蓮宗一致派の本山である立本寺。(写真:T.TAKANO)

石田家重臣であり、戦国武将としても名の知れ渡った島左近は、東軍からすればいうまでもなくお尋ね者でした。はたしてそんな左近が東軍の追っ手をかわし、京都で生き永らえることができたのでしょうか。

しかしながら、関ケ原の後、宇喜多秀家、増田長盛、織田秀信などの有力な西軍大名たちが死罪を逃れ蟄居を命じられていることを踏まえて考えると、石田三成の陪臣であった左近にはさほどの追求は及ばなかったとも考えられます。

また、その潜伏先として江戸時代初期、日本で最大の人口を有していた京都(1600年の人口:京都約30万人・大坂約28万人・江戸約6万人)を選んだことで、かえって身を隠すのに好都合であったのではないでしょうか。

立本寺にある島左近の墓が本物であるかどうかは、正直分かりません。でも、稀代の勇将・島左近が生き延びて、この地で天寿を全うしたと伝わること、その墓を現代の我々がこうして拝することができるというのは、文字通りの歴史ロマンなのではないでしょうか。

墓石に刻まれた戒名。いまも全国から子孫の方がお参りに訪れるという。(写真:T.TAKANO)

この記事をお読みの皆さんも、京都に行かれたら是非とも西陣に足を運び、立本寺の島左近の墓に参詣し、隠れた歴史を肌で感じていただければ思います。

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