瞑想だけでなく言葉をただひたすら唱えることでも無我は得られる (3/3ページ)

心に残る家族葬

瞑想しやすく意識変容に導くことができるなら念仏でも題目でも何でもよいと思われる。しかし選んだ言葉に絶大な信頼を置くにはやはり意味が必要である。ただ心をリフレッシュするためではなく人生の苦境に立たされた時、念仏や題目のような古来から伝わり神仏が宿るとされる「聖なる言葉」に、我々はすがることができる。言葉が守りとなるのだ。宗教と瞑想は切り離せないが、宗教の本義は神仏にすがること、信仰である。瞑想もまた信仰の要素が加わることでエクササイズ以上の価値が生まれる。

■「聖なる言葉」にすがる

「聖なる言葉」は時として神仏との邂逅すら可能にするともいう。ヘシュカズムの目的はまさにそれであるし、空海(774〜835 )が真言を100万回唱え続ける荒行「虚空蔵求聞持法」を修し、明けの明星が口の中に飛び込むという神秘体験を得たと自ら記しているのはよく知られている。近年では浄土宗の聖者、山崎弁栄(1859〜1920)が60日間に1日10万遍の念仏三昧を修したと言われている。彼は阿弥陀仏を感得する「見仏」を実現したという。「見仏」(見神)と「無我」は正反対のように思われるが、先述した「0」と「1」の違いに過ぎない。ただ「1」の方向には「聖なる言葉」がある。我々の凡人でもその言葉を唱えることで神仏の一端に触れることができる。

■「聖なる言葉」に親しむ

ステイホームが推奨される昨今、ヨガや瞑想が注目されている。宝彩式のような宗教色の無い瞑想メソッドは疲れきった日常生活における癒やしが期待できる。一方で非日常的な極限状況においては「すがる」要素を加えた「聖なる言葉」が必要となる。死に直面したスピリチュアルペインの現場においても一助になりうるはずである。苦しみの原因は言葉(思考)かもしれないが、救ってくれるのもまた言葉だ。日常とは脆いものである。何かひとつお守りとして親しんでおくのはいいかもしれない。

■参考資料

■落合仁司「地中海の無限者 東西キリスト教の神・人間論」春秋社(1995)
■宝彩有菜「始めよう。瞑想」光文社(2007)
■佐々木有一「近代の念仏聖者 山崎弁栄」春秋社(2015)

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