瞑想だけでなく言葉をただひたすら唱えることでも無我は得られる (1/3ページ)
「南無阿弥陀仏」の念仏や「南無妙法蓮華経」の題目、密教に伝わる様々な真言(マントラ)。あるいは神道の祝詞やキリスト教イスラム教の祈りの言葉などの「聖なる言葉」は、葬儀や法事の場で響き渡るだけのものではない。悩み苦しむ心を平穏にし、絶望に陥った先の杖として、我々はすがるように唱えてきた。
■思わず病院で念仏にすがっていた
筆者の個人的体験で恐縮だが、先日「閃輝暗点」という症状を発症し、脳外科でMRI検査に受診した。結果は「異常なし」で胸を撫で下ろしたが、かなりの恐怖を覚えた。閃輝暗点は光の輪のようなものが点滅している光景が見えるもので、大抵はその後まもなく強烈な偏頭痛か嘔吐に襲われるというが筆者にはそれがなかった。むしろそれらの症状が何も無い方が危険な兆候ありとのことで、急いで脳外科で検査した次第である。
場所が場所であるし、光の輪が徐々に広がっていくビジョンはどう考えても尋常ではない。これで何もないはずはないと冷や汗をかきながら筆者は、心の中で念仏を唱えていた。MRIで20分ほど頭部を拘束されている時も、結果が出るまでの長く感じた時間もひたすら念仏であった。異常がなかったことと念仏はおそらく何の関係もない。念仏の神通力で存在したはずの異常が消えたわけではないだろう。しかしすがることはできた。念仏を唱えている間だけは一種の瞑想状態となり恐怖を忘れられたのである。
■瞑想は無我になるための一つの方法
瞑想の基本は思考を停止させ「無我」の状態になり心を平穏に保つことである。我々が悩み、恐れ、戸惑うのは常にあれこれ考えているからである。考えることを一切止めれば不安も消える。楽しいこと嬉しいことも同様である。失いたくないものは失う恐怖と表裏一体である。だから仏陀は執着を捨てろと説いたのだった。「我」がある限り執着は消えない。瞑想は「無我」になるためのメソッドなのである。そして仏教ではこの「無我」を徹底的に追究する禅が誕生した。
■言葉をひたすら唱えることでも無我になれる
禅では無念無想になるべくひたすら座禅を組むが、一つの対象、言葉をひたすら唱える方向も存在する。浄土系は念仏を、日蓮系は題目を唱える唱題、密教系では真言を読誦する。