頭脳戦かつ奇襲作戦が炸裂!戦国時代における三大奇襲戦のひとつ「厳島の戦い」とは?

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頭脳戦かつ奇襲作戦が炸裂!戦国時代における三大奇襲戦のひとつ「厳島の戦い」とは?

大名が群雄割拠し、様々な合戦が行われた戦国時代。少数の兵で強敵を倒す、というのはいつの時代も人々を魅了しますよね。そんな戦いが、織田信長らが有名になる前の1555年に起きました。

それが、今回ご紹介する「厳島の戦い」です。

いったいどんな合戦だったのでしょうか?

厳島の戦いとは?

厳島の戦いとは、弘治元年(1555年)10月1日に、安芸国厳島にて、毛利元就(もうり もとなり)と陶晴賢(すえ はるかた)のあいだで起きた戦いです。

厳島神社がある信仰の島である厳島全体が戦場となった大規模な合戦でした。戦国時代における、三大奇襲戦(そのほかは川越城の戦い、及び桶狭間の戦い)のひとつとも呼ばれています。

戦いはなぜ起きたか?

毛利氏が力をにぎる前、中国地方は大内氏と尼子氏の二大勢力が力を持っていました。もともと毛利家は尼子氏の家臣だったものの、尼子氏の重臣が毛利元就を失脚させようとしたことを知り、毛利元就は尼子氏から離れて大内氏の家臣となりました。

しかし、大内氏内部でも、毛利元就の主君である大内義隆と、武断派である陶隆房(すえ たかふさ)後の陶晴賢(すえ はるかた)とのあいだで不和が起こります。

このことから、厳島の戦いが起こりました。

合戦の様子と元就勝利の理由

月岡芳年『大日本名将鑑 毛利元就』

毛利軍4000に対して陶軍の兵力は2万だったと言われています。まともに戦っても勝ち目のない毛利軍は頭を使わなくてはいけませんでした。そして、陶の大軍を宮島(厳島)におびき出し、大軍の身動きが取れない状況に追い込もうとしました。

そして、そこを一斉攻撃するという作戦でした。実際は二手に分かれて一気に攻め込みましたが、陶氏の水軍も次々と沈没し、自壊しました。毛利元就がつねに戦略を考えていたことが、見事彼を勝利に導いたのではないでしょうか。

ちなみに、上記の通り厳島は神聖な島ですから、毛利元就は、社殿や回廊を洗ったり板を取り替えたり、島の表面にある土を削って海に流すなどして、血なまぐさい匂いを消したといわれています。

いかがでしたか?

この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです!

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