なんと美しい!新聞の付録として絵師・月岡芳年が描いた徳川慶喜の正室・美賀君の浮世絵を解説

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なんと美しい!新聞の付録として絵師・月岡芳年が描いた徳川慶喜の正室・美賀君の浮世絵を解説

NHK大河ドラマ「青天を衝け」に登場する徳川慶喜の正室である美賀君。

1886年(明治19年)10月7日に創刊された『やまと新聞』の付録として、なんと美賀君の浮世絵が月岡芳年によって描かれていました。今回はこの浮世絵を徹底解説します。

近世人物誌 やまと新聞付録 第二十 美賀君 『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)ウィキペディアより

『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)ウィキペディアより

江戸時代最後の征夷大将軍・徳川慶喜の正室美賀君の浮世絵です。なんと美しいお姿でしょうか。

絵の上部には美賀君について綴られています。

『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)上部分

『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)上部分

ここには、以下のような分が綴られています。

『御簾中(将軍の正妻の意)は一条殿の御養女、実は今出川三位中将の御息女。
御名前は延子の方とおっしゃいます。
安政二年卯年十月に京から江戸へとお下りになりました。
同十二月に御婚姻され、慶応年中まで江戸の一橋邸にお住まいになり、明治元年、戊辰の年に駿州府中へお移りになりました。
当時は静岡紺屋町の徳川邸にお住まいになられました。
御顔立ちは美しくその御心はとてもお優しかったとのことです。

常磐(ときは)なる松(まつ)の
御蔭(みかげ)による人は
こころも色(いろ)も
ならへとそおもふ

これはまだ一橋の御館にお住まいになっていた時の御歌です』

この時代、徳川慶喜は征夷大将軍の職は解かれていましたが、上記の文が綴られた巻紙には殿上人として“雲”の文様が描かれています。

牡丹と岩 『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)中部分

『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)中部分

美賀君の背後に牡丹と岩が描かれています。

牡丹の花は“百花の王”とも言われ、別名「富貴花(ふうきばな)」「皇(すめらぎ)花」とも呼ばれ、富貴の象徴として親しまれています。

牡丹をモチーフとして使う時、人々はそこに“豊かさ”をイメージします。それは富や地位、名誉と言ったものだけではなく、“心の豊かさ”をも含むのではないでしょうか。
美賀君とともに描かれるのに相応しい花と言えます。

“岩”に関してですが、筆者はこれを“さざれ石”ではないかと思います。“さざれ石”とは本来は小石という意味です。その小石が長い年月を経て集まり小石の塊の“岩”になる。

『君が代』の“さざれ石の巖をとなりて”の部分に重なりますが、それは特に“天皇”を指すものではなく、徳川家の末長い繁栄を表現するものだと筆者は思います。

美賀君の衣装 『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)部分

『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)部分

純白の小袖は清純、清廉を意味しており、穢れのないこと、そして現代で言うところの“貴方の(または貴方の家風の)色に染まります”を意味しています。

そして一番重要なのは打ち掛けや帯の模様に表されています。

打掛の模様の意味 『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)打掛部分

『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)打掛部分

上記の打掛部分に描かれていて、ベースになっているのは「御簾(みす)柄」です。御簾とは平安時代の寝殿造りにおいて母屋と廂の間にかけた簾(すだれ)のことです。

将軍の正室をさす「御簾中」とは“常に簾(すだれ)の中にいる人”を意味し、美賀君そのものを表す模様です。

そして打掛の全体に鞠のような丸い模様がありますね。

『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)模様部分

『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)模様部分

これは鞠ではなく“茄子”です。丸みを帯びた形状の下の部分が尖っていませんか?

茄子は実は徳川家康の大好物の食べ物なのです。

いきなりですが、“一富士二鷹三茄子”という言葉よくご存知ですよね。これを新年の初夢に見ると縁起が良いと言われるものです。

実はこれは徳川家康に関連するのです。

徳川家康は駿府(静岡県)に深い関わりがあります。静岡県といえば富士山がありますね。昔は富士山を‘極楽浄土’とする考え方がありました。だから縁起が良いのです。

その富士山のふもとには昔から有名な鷹狩りの場がありました。家康は鷹狩りが大好きだったのです。

そして本題の‘茄子’ですが、静岡県の三保半島(三保の松原がある所です)で‘折戸なす’が栽培されていました。この茄子は通常の茄子よりも1,2ヶ月早く収穫出来ました。

初物が大好きな江戸っ子たちの間でこの‘折戸なす’は人気があり、初茄子は5個で一両、今で言うと10万円したとか。

家康は折戸なすが好物だということで、500個も献上されたそうです。

家康の好物でしかも初物は高級品ということで、徳川家に嫁いだ美賀君の打掛の絵柄として描かれるのはものとしては最適なのです。

帯柄には 『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)部分

『近世人物誌 徳川慶喜公御簾中』 (月岡芳年画)部分

次は帯の柄を見てみましょう。帯に描かれているのは‘唐草文様’です。唐草は蔓が絡まるように伸びあい、長寿延命・子孫繁栄の象徴として古来から描かれた模様です。

「長寿延命・子孫繁栄」こそが征夷大将軍徳川慶喜の正室である美賀君に望まれたものだったのではないでしょうか。

美賀君は幸せだったのか

実際の美賀君は初めて産んだ女子をその20日後に亡くしてしまいます。その娘の一周忌の法要に夫の慶喜は出席しませんでした。その後、美賀君は子を授かることはなかったのです。

慶喜は将軍後見職となったため京に向かい、その後の明治維新で征夷大将軍の職を辞し静岡に移り住むまでの約10年程の間、美賀君は別居状態で江戸の一条徳川邸に暮らしていました。

美賀君は静岡へ移り住み、初めて慶喜とともに暮らすようになりました。

しかし慶喜は静岡へ二人の側室を連れて住んでおり、側室との間に21人の子供をもうけるのです。

前述の、月岡芳年が書いたように、美賀君が本当に心根の優しい人であったなら、美賀君の生涯は果たして幸せだったのでしょうか。幸せだったと思いたいです。

美賀君の辞世の句があります。

かくはかり うたて別をするか路に つきぬ名残は ふちのしらゆき

(完)

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