「モノ」と「人」のハートフル関わりを描いた中田花奈の個人PV【乃木坂46「個人PVという実験場」第20回1/5

日刊大衆

※画像は『中田花奈1st写真集 好きなことだけをしていたい』より
※画像は『中田花奈1st写真集 好きなことだけをしていたい』より

乃木坂46「個人PVという実験場」

第20回 乃木坂46が「人間ならざるもの」を演じるとき 1/5

 乃木坂46の個人PVは、メンバーが「演じる」ための機会を提供する側面を持っている。俳優を継続的に輩出するグループとしての乃木坂46を考える際、こうした映像コンテンツは重要な機能のひとつを担ってきた。

 このとき、メンバーたちが表現するのは、必ずしも「人間」ばかりではない。メンバーの身体を通じて、ときには人間ならざるものの「人格」が上演されることもある。生身の人間ではないものを登場人物にしながら、演技を通じてそれらに魂を吹き込み、その設定ゆえの悲哀とおかしみを交錯させてゆく。

中田花奈の「HATSUKOI」

 そうした人間ならざるものを主役にしたドラマは、グループにとって初めての個人PVですでに試みられている。それが、2012年のデビューシングル『ぐるぐるカーテン』に収録された中田花奈の個人PV「HATSUKOI」(監督:高松明子)である。

https://www.youtube.com/watch?v=BNqB6sbCoMM
(※中田花奈個人PV「HATSUKOI」)

 植田圭輔を共演に迎えたこのショートムービーは、放課後の教室で片思いの男子生徒が部活動から戻ってくるのを待つ中田の姿から始まる。一見すると、若いキャストを主役に据えた作品としては定番の、思春期の淡い恋を主題にした王道的なドラマのような佇まいである。やがて、植田が演じる男子生徒が教室に近づいてくる気配を感じ、中田は居住まいを正して緊張気味に待機する。

 しかし、植田が登場し画面内の主役が彼に切り替わると同時に、甘酸っぱい空気は一転、教室に不自然に置かれた「もの」を植田が訝しげに眺める場面へと移ろっていく。ここで、中田がその身体を通じて表現していたものが、本来魂を持つはずのない無機物であったことが明らかになる。

 中田演じる主人公は植田に思いを寄せ、「通学する植田の姿を毎日見つめていた」わけだが、それが客観的にどのような光景であるのかも、ドラマ後半の時点でようやく視聴者にも具体的にイメージできるようになる。それは、どのようにしても叶うことのない悲恋である。

 一方、植田の視点からすれば、中田が演じている「もの」が自分に恋をするなど勘づくはずもなく、むしろ無人の教室に唐突に置かれていたらホラー的な気味悪ささえ覚えるその「もの」に、なかば怯えながら一撃を加えて逃げていく。

 この致し方ないリアクションはしかし、中田にとっては恋する相手から明確に「拒絶」される瞬間であった。哀しいめぐり合わせを描いた「HATSUKOI」は、初期のドラマ型個人PVのなかでも異質な空気感をまとい、どこか静謐さを漂わす作品である。

■中田花奈の「私はピアノ。」

 中田がドラマ型の個人PVのなかで、人間ならざるものを演じたのは「HATSUKOI」のときだけではなかった。2014年、9枚目シングル『夏のFree&Easy』で制作された個人PV「私はピアノ。」(監督:ナカバヤシジュン)でもやはり、彼女は人間を慕う無機物の擬人化を担っている。

https://www.youtube.com/watch?v=N8doCsSTNjA
(※中田花奈個人PV「私はピアノ。」予告編)

 タイトルの通り、このドラマで中田が演じているのは、登場人物の女性が長年愛用してきた電子ピアノである。音楽の道に進むことを志していた女性がいつしか行き詰まり、慣れ親しんだピアノをついに処分しようと決める。

 幼少期からの彼女を見守ってきたピアノ=中田は自分が捨てられようとしていることを知り、なんとか説得しようと彼女に届かない声で思いの丈を伝え続けるうちに――。

 魂をもつ存在として立ち振る舞い、登場人物を見守り続ける電子ピアノのありようはまた、登場人物自身が身の回りの事物に寄せる思い入れの投影でもある。人生に伴走してきた身近な家財道具にささやかなアニミズムを託したこのドラマもまた、非人間の魂を表現する役割を中田にあてながら、人とモノとのハートフルな関わりを描いている。

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