和装と和名を貰った幕府の支援者!共に新政府軍と戦った西洋商人・スネル兄弟の軌跡

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和装と和名を貰った幕府の支援者!共に新政府軍と戦った西洋商人・スネル兄弟の軌跡

日本が開国したことにより、幕末にはハリスやグラバーといった多くの外国人が日本に来航しました。彼らは条約の締結や武器の売買など多様なことをしましたが、中には武器の売買をしつつも、和装で新政府軍と戦った幕府支援者の外国人もいました。

その人物はジョン・ヘンリー・スネルエドワルド・スネルのスネル兄弟。

今回は幕府と共に戦ったスネル兄弟の日本での活動を追ってみたいと思います。

ジョン・ヘンリー・スネル/Wikipediaより

10代のころに日本に来航

スネル兄弟は横浜港が開港し、外国人居留地が設置された安政5年(1859)には日本にいました。2人の年齢はヘンリーが17歳、エドワルドが16歳とまだ青年。

エドワルド・スネル/Wikipediaより

しかし、G・バケッテと「バケテスネル」のという名称の商会で西洋雑貨を日本人に売っていました。さらに、スネル兄弟は、外国人居留地から離れた場所で牧場を経営し、牛肉や牛乳を売っていたことから若いころから商才があったことがうかがえます。

語学堪能のため、他国から多数のスカウトが

商才に加えて語学が堪能だったことで、ヘンリーは文久2年(1861)に祖国プロイセン王国の領事館ができると、初代領事マックス・フォン・ブラントの書記官に任命されます。一方、エドワルドは文久3年(1863)にスイス使節団の書記官に選ばれ、翌年にルドリフ・リンダウが領事に任命されると、引き続き書記官を務めました。

また、慶応3年(1867)にはスネル兄弟が馬車に乗って江戸に帰ってくる途中、馬車の前に現れた沼田藩士に襲撃され、その抵抗のために撃った銃弾が下駄商人の雇用人に当たったヘンリー・スネル襲撃事件が起きます。この事件の2日後に襲撃した沼田藩士が拘束されました。

平松武兵衛として生きた兄と武器商人として生きた弟

慶応3年(1867)の大政奉還後、エドワルドは新しくできた新潟港のオランダ・スイス・デンマーク副領事代行に任命されたため、新潟へ移住。ヘンリーもそれに従いました。

さらに、エドワルドは同地でエドワルド・スネル商会を設立し、長岡藩家老の河井継之助にガトリング砲を2挺とエンフィールド銃、会津藩家老の梶原平馬には継之助仲介のもと、ライフル銃780挺と弾薬を売りました。

河井継之助/Wikipediaより

一方、ヘンリーは梶原平馬のもとで会津へ行きます。そして、米沢藩家老千坂高雅(ちさか-たかまさ)より軍事顧問になるよう頼まれ、これを承諾。その後、松平容保から平松武兵衛の名と屋敷を貰いました。

ヘンリーは羽織袴に個脇差を差した和装で前線に立ち、新政府軍に大砲を撃つ活躍をみせました。

千坂高雅/Wikipediaより

明治維新後の2人の動向

明治時代になるとヘンリーは日本人妻を含んだ会津藩の住人40人とアメリカカルフォルニア州へ移住。カルフォルニア州のサンフランシスコにあるゴールド・ヒルで「若松コロニー」をつくりました。

しかし、日本の作物が育たなかったため、経営難に陥ります。そこでヘンリーは明治3年(1871)に資金調達のために日本へ向かいますが、二度と戻ってくることはありませんでした。

反対にエドワルドは新潟から東京へ移り住み、その地で商会を開きます。明治15年(1882)まで日本で活動していましたが、それ以後は消息不明となりました。

まとめ

スネル兄弟は日本人に武器を売っていたことから「死の商人」と呼ばれており、西のグラバー・東のスネルとグラバーと肩を並べる存在です。

しかし、グラバーと比べて知名度が低い理由は、史料が少ないことと敗北した幕府側にいたことが要因としてあげられるかと思います。

仮にグラバーとスネル兄弟の立ち位置が反対だったら、歴史の流れが大きく変わっていたかもしれませんね。

参考:高橋義夫『幕末怪商伝』

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