討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【維新政府、徳川慶喜の動向編】

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討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【維新政府、徳川慶喜の動向編】

旧幕府側の暴発を誘い、鳥羽伏見の戦いの口火となったといわれる薩摩藩邸焼打ち事件

【第1回】では、薩摩藩邸焼討ち事件の経緯として、大政奉還から王政復古のクーデターを経て、維新政府が発足したことを紹介した。

討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【大政奉還〜王政復古の大号令編】

【第2回】では、薩摩藩邸焼打ち事件が起きるにいたった、幕末の政治状況として、大王政復古の大号令後の維新政府、さらには、復権を画策する徳川慶喜の動向についてお話ししよう。

徳川慶喜の大坂下向

松平春嶽。越前福井藩主で、幕府の政治総裁職と務めた。 (写真:Wikipedia)

1867(慶應3)年12月9日、明治天皇が「王政復古の大号令」を発し、維新政府が産声を上げた。

その由を伝達するため、翌10日に松平春嶽が二条城を訪れた。

慶喜の将軍職辞任を認める。その上で政府費用として徳川家所領のうちから200万石を上納せよ。

春嶽から維新政府の要望を聞いた慶喜は、おそらくは腸が煮えくり返る気持ちであったろう。だが、そうした態度をおくびにも出さず、その日の深夜、二条城に駐留する全将士、約1万人を率いて大坂に退いて行った。

もちろん、「王政復古の大号令」の内容を漏れ聞いた二条城の将士たちが憤激したのはいうまでもない。薩長討つべしとの主戦論に大坂城中は包まれた。

こうした動きに対し慶喜は、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬に兵の暴発厳禁を命じた。さらに、激昂する将士たちには、こう言い聞かせた。

自分には深謀がある。しかし、それを今明かすことはできない。事を成功させるためには、謀が漏れてはいけないのだ。ここは早まるな。

慶喜の深謀とは、強力な旧幕府の軍事力をバックに維新政府に圧力をかけつつ、自分が首班となる議院政権の樹立であった。そのためには、国の内外に対し、いまだ日本の中心は徳川家であることを印象付けねばならない。

 会津藩主松平容保。家臣の佐川官兵衛、林権助などが主戦派として討薩を訴えた。(写真:Wikipedia)

衰えない慶喜の政治力

 フランス軍の軍服姿の徳川慶喜。(写真:Wikipedia)

大坂に下った慶喜は、早速、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ・プロシア・イタリアの6か国代表と謁見し、外交権は自分にあることを通告した。また、財政難に喘ぐ維新政府のために、金5万両を貸し与えるという余裕も見せた。

岩倉、西郷、大久保よ。王政復古のクーデターごときで事を成したとは思うな。国庫の管理も、外交もままならない、そんな政権で国を動かせるとでも思っているのか。お前らが持っているのは、空の権力だけだ。すぐに徳川の力を必要とする時が来るぞ。

そうした中、朝廷内の空気は微妙なものに変わりつつあった。三職会議(総裁・議定・参与で構成)では、討幕派の岩倉らを抑えて、公儀政体派(維新政府に徳川も必要だと考える一派)の山内容堂や松平春嶽らが巻き返してきた。

加えて、江戸から大坂に続々と集まってくる旧幕府軍の動きにも、討幕派は神経を使わずにはいられなかった。ここにきて、あの岩倉さえも揺らいできた。非武装上京ならば、慶喜の入京参内を許し、議定職に補してもよいという妥協案が御所内でまことしやかに囁かれはじめていたのだ。

そして、ついに12月24日、
1.慶喜の官位を前内大臣と称すること。
2.徳川家領200万石の返納は辞めにして、諸侯それぞれの石高に応じて徴収する。
との合意が維新政府内でなされた。ここに、慶喜の復権は確実に一歩前進したのである。

 大久保利通。西郷と並ぶ薩摩藩討幕派のリーダー。(写真:Wikipedia)

主戦論が渦巻く大坂城中

 慶喜の側近で筆頭老中の板倉勝静。大坂城中主戦派の暴発が迫っていることを慶喜に伝えた。(写真:Wikipedia)

維新政府内で、慶喜復権の動きが進む中、旧幕府軍がひしめく大坂城中では、軍事的暴発がギリギリのところまで迫っていた。

主戦派の中には、傍観を決め込む慶喜を刺し殺してでも、薩摩を討つために軍を京に向けようとする動きまであったという。

だが、慶喜は動かない。軍事的な衝突を避けつつ、事を慎重に進めれば、もう少しで維新政府内の重要なポジションに座することができるのだ。ここは、最後の我慢のしどころだった。

しかし、12月28日、慶喜が予想もしなかった報告が江戸から届いた。3日前に江戸湾を出港した軍艦順動に乗船した大目付の滝川具挙が大坂城に到着、江戸高輪の薩摩藩邸焼打ち事件の顛末がもたらされたのだ。

この報告に大坂城中は湧き上がった。江戸における薩摩藩の非道の数々、それを討伐した幕府軍の働き。将士たちは、激昂し血相を変え、慶喜に討薩を迫った

追い詰められた慶喜は、ついに「討薩の表」を発した。

十二月九日以来の薩摩藩の振る舞いは、朝廷の真意ではない。ひとえに島津家の奸臣どもの陰謀である。さらに、浮浪の徒を装い江戸で押し込み強盗を働くなど、許せるものではない。君側の佞臣を除くため、誅戮を加える。

明くる1868(慶應4)年1月2日、1万5千の旧幕府軍が「慶喜公上京の御先供」の触れ込みで京都を目指して進軍を開始した。やがて、軍勢は薩摩を中心とする維新政府軍と激突、鳥羽伏見の戦いに発展していく。

しかし、これは決して歴史の椿事ではない。西郷隆盛という稀代の策士が画策した入念な仕掛け、すなわち薩摩藩邸焼打ち事件が功を奏したできごとだった。

慶喜の政権復帰が現実味を帯びてくる中、なんとしても戦争を起こし慶喜と旧幕府の息の根を止めねば、自分たちの理想とする王政復古はならない。そんな西郷ら討幕派の執念が実ったのだ。

 江戸における薩摩藩邸焼打ち事件が発端となり、勃発した鳥羽伏見の戦い。(写真:Wikipedia)

【その2】はここまで。【その3】では、薩摩藩邸焼打ち事件と西郷隆盛の人物像について述べていこう。

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