天下無双!関ヶ原で敗戦するも、見事な返り咲きを果たした最強の武将・立花宗茂の生涯 (2/2ページ)

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九州征伐は豊臣軍の勝利で終わり、功績をあげた宗茂は筑後国柳川13万2,000石を与えられます。

その後、関ヶ原の戦い本戦には別の戦いで間に合いませんでした。宗茂がついた西軍は敗れてしまったため、彼は浪人の身に。

関ヶ原合戦屏風

その後、本多忠勝の進言により、宗茂は徳川家康から幕府の「御書院番頭」にまで選ばれるなど、見事な返り咲きを果たしました。

立花宗茂はどんな人物だった?

立花宗茂は、文武両道の武将として知られています。豊臣秀吉からは、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と称されるほど。

徳川家康も、彼の噂を聞いていたため非常に警戒しており、関ヶ原の戦いで自身の東軍になんとかして引き入れようとしていたといわれています。

また、茶道、書道、連歌、蹴鞠、狂言、能などあらゆる芸にも通じていたとされています。

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この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです!

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