大名から農民に、お家再興まで苦難の連続…「最後の大名」林忠崇の人生が波乱万丈すぎ!【後編】

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大名から農民に、お家再興まで苦難の連続…「最後の大名」林忠崇の人生が波乱万丈すぎ!【後編】

前編のあらすじ

時は幕末、上総国請西藩主であった林忠崇(はやし ただたか)戊辰戦争に身を投じるべく、藩主の地位も身分も捨てて脱藩。旧幕府軍の遊撃隊(ゆうげきたい)に属して薩長の新政府軍と戦います。

林忠崇。Wikipediaより。

しかし各地を転戦するうち、守るべき主君・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)の安全が保証されたため、戦う目的を失った忠崇は新政府軍に投降

果たして、忠崇の運命やいかに……?

前回の記事

藩主なのに脱藩して戊辰戦争を闘い抜いた「最後の大名」林忠崇の人生が波乱万丈すぎ!【前編】

武士の誇りを奪われ、職を転々とする屈従の日々

「予初メ一統、縲絏(るいせつ)ノ辱ハ素ヨリ覚悟ノ事トイヘトモ、弥、刀ヲ脱スルニ臨ンテ、其心中イハンカタナシ」
※『一夢林翁手稿戊辰出陣記』

【意訳】我らはみな、捕虜となる(縄に縛られ、投獄される)恥辱は覚悟していたが、いやそれにしても、いざ刀を奪われると、武士として言葉に尽くせぬ辛さである。

捕虜となった忠崇は江戸に護送された後、親戚に当たる唐津藩(現:佐賀県唐津市)の小笠原家に身柄を預けられました。

賊将として死罪は免れたものの、これまで苦楽を共に闘い抜いた元藩士ら19名とは離れ離れにされてしまいます(彼らは名古屋藩の預かり)。

一方、請西藩は改易(かいえき。領土を全没収)されてしまい、藩主の林忠弘(ただひろ。忠崇の弟?従弟?など諸説あり)は東京府士族として300石で召し抱えられましたが、藩として抵抗していなかったにも関わらず1万石から300石の97%減とは、あまりに酷い仕打ち。

これが戊辰戦争において唯一の改易案件となったのでした(あれほど頑強に抵抗した会津藩などでも、藩自体を取り潰されてはいません)。

「いかに徳川家のためとは言え、皆には申し訳ないことをした……」

大名から農民となった林忠崇(イメージ)

結局、自由の身となったのは3年以上の歳月を経た明治5年(1872年)1月。さぁ、これからどうしよう……忠崇は旧領の請西に帰って、農民となることを決断します。

「いやいや……いくら何でもお立場がお立場にございますれば、もそっとマシな職業を……」

「いや、まずは帰って皆に謝らねばならぬ。地元に仕官のクチがない以上、帰農するよりあるまい」

かつて神君・徳川家康(いえやす)が人質にとられていた幼少期、その帰りを待つ忠臣たちは汗水流して野良仕事に励んだと言うではないか。

主君のために振るうなら、刀も鍬も同じこと……とまぁ、そんな思いで農業を始めたはいいものの、やはり素人がいきなり始めて上手くいくものでもありません。

「やはり『餅は餅屋』じゃのう……」

どうにもならないので明治6年(1873年)12月、東京府知事を務めていた大久保一翁(おおくぼ いちおう。旧幕閣)のつてで、東京府の役人に採用してもらいました。

「元藩主殿に対して、あまりよい待遇も提供でき申さぬが……我らも肩身の狭きゆえ、どうかご辛抱されたい」

大久保一翁。Wikipediaより

「いえいえ、大久保殿のご厚意まことに忝(かたじけの)うございまする……」

しかし、忠崇の待遇は十等属という最下級クラス。おまけに旧賊軍、しかも大名から小役人への転落とあって、周囲からイジメに遭ったことは想像に難くありません。

「おのれ、昔は昔、今は力を合わせて日本国のために奉仕する仲間ではないのか……!」

そして明治8年(1875年)、権知事(副知事)の楠本正隆(くすもと まさたか)と衝突。楠本は大村藩(現:長崎県大村市)の出身で、戊辰戦争においては遊撃隊と激しく戦った因縁がありました。

「この負け犬めが、朝敵の分際で人並みのクチを利くでないわ!」

「貴様、いつまで左様なことを……!」

侮辱に耐えかねて職を辞した忠崇は、今度は一念発起して箱館(現:北海道函館市)に渡り、豪商・仲栄助(なか えいすけ)の番頭となります。

「かつては渡航をやめた蝦夷地に行くこととなるとは……人生は実にわからんものじゃなぁ……」

しかし人生とは本当にわからないもので、その栄助も数年で破産してしまい、今度は神奈川県高座郡入谷村(現:座間市)にある龍源院(現存)へ転がり込みました。

「当時の忠崇は植木屋の親方とか、寺男とかの名目で住込んでいながら、別に仕事をするでもなく近所の人々とも殆んど接触せず、身分姓名は一切極秘で彼を招いた山口曹参住職夫人さへ知らなかったという。ただ絵をたしなんで時折近隣の人々に描き与えていた様だが、現在は寺の遺品を除いて全く残っていない」

※『かながわ風土記』第97号「かながわの社寺縁起夜話 座間 竜源院物語 最後の大名林忠崇」より

どうやら忠崇には絵画の嗜みがあったようで、時おり達筆を振るっていたそうです。

子供の頃から絵心があった?(イメージ)

刀を振るい、鍬を振るい、そして絵筆を振るう……実に多彩な人生ですが、器用貧乏な印象も否めませんね。

そんなこんなで明治13年(1880年)、今度は大阪府で書記官を勤めますが、ここは薄給の上に多忙を極め、加えてイジメもあったようで旧臣の広部精(ひろべ せい)に就職の世話をして欲しいと書状で訴えます。

「あぁ若君(もうそんな歳でもないけど)、おいたわしや……」

お労しいという言葉がこれほど似合う状況もそうそうないでしょうが、忠崇の窮状に胸を痛めた広部は、一念発起して林家の御家再興運動を開始するのでした。

苦節の末に御家再興を果たすも、妻と死別

「どうか……どうか林家をお見捨てなきよう!」

かつて忠崇の身柄を預かった本家の小笠原家の協力を得て活動を展開。

「「「今こそ、主君のお役に立つべし!」」」

何としてでも忠崇を華族(旧大名待遇)に列せしむるため、各地に散らばっていた旧臣たちが少しずつ力を合わせます。

「皆の者、忝(かたじけな)い……!」

篤い忠義に胸打たれながら、希望を持って生きていた忠崇は、明治19年(1886年)ごろに小島チヱ(こじま ちゑ)と結婚しました。

チヱとの結婚(イメージ)

チヱは江戸時代末期の安政元年(1854年)、平民である小島弥作(やさく)の次女として誕生。旧臣の樋山省吾(ひやま しょうご)が紹介してくれたのです。

「つまらぬ女ではございまするが、きっとあなたの立身出世を見届けるべく、お側で支えて参ります」

「うむ。皆の思いに応えるべく、必ずや志を果たそうぞ!」

そして戊辰戦争から20年以上の歳月を経た明治26年(1893年)、ついに忠崇は従五位に叙せられ、華族の仲間入りを果たしました。

「「「おめでとうございます……!」」」

併せて宮内庁の東宮職庶務課に就職が決まり、いよいよ人生が上向いて来たように見えましたが、少し張り切り過ぎたのか身体を壊して明治29年(1896年)に辞職、故郷の請西村に帰って療養します。

3年間の療養生活を経て体調が回復した忠崇は、今度は神君・徳川家康を祀る日光東照宮(現:栃木県日光市)で神官として奉職しました。

東照大権現として祀られた徳川家康。Wikipediaより

徳川家に対して誰よりも忠義に篤かった忠崇ですから、これこそまさに天職だったでしょうが、長年の苦労が祟ったのか、今度はチヱが身体を壊してしまいます。

妻との別れ

「どうか、私のことは顧みず、徳川家のためご奉職下さいまし……」

「そうは行かぬ。苦しい時に支え続けてくれたそなたの献身を顧みねば、東照神君もお怒りになろうぞ」

かくして明治35年(1902年)に神官を辞職してチヱを介護するため帰郷した忠崇ですが、明治37年(1904年)闘病生活の末にチヱを喪います。

「チヱ……」

「お母さま……」

糟糠の妻を喪った哀しみ(イメージ)

チヱとの間に授かった一人娘・ミツを育て上げた忠崇は、大正4年(1915年)に彼女の嫁ぎ先である岡山県へ移住。婿の妹尾順平(せのお じゅんぺい)と同居しました。

この妹尾順平は一族で経営する妹尾銀行の頭取を勤め、後に衆議院議員となりますが、昭和5年(1930年)にミツと離婚。

再び父娘の二人暮らしとなり、妹尾から譲り受けたミカド商会を経営。後に会社をたたんでアパート経営を始めました。

「最後の大名」その晩年と辞世

元広島藩主の浅野長勲。Wikipediaより

やがて昭和12年(1937年)に旧広島藩主であった浅野長勲(あさの ながこと)が亡くなると、忠崇は江戸時代から生き残った「最後の大名」として注目を浴びるようになります。

忠崇は老いてなお矍鑠として時折メディアの取材に応じたり、近所の人々に鎖鎌など武芸を教えたり、好きな絵画を楽しんだり、と充実した晩年を過ごしたそうです。

戊辰戦争から半世紀以上が過ぎても忠崇は武士の嗜みとして剣術の鍛錬を怠らず、寝る時も仰向け(仰臥)ではなく、心臓を刺突されぬよう左半身を下に横臥。また枕元には護身用の十手を欠かさなかったと言います。

そして昭和16年(1941年)に94歳で世を去るのですが、周囲の者から辞世を詠むよう求められた際「明治元年にやったから、今はない」と答えたそうです。

真心の あるかなきかは ほふり出す
腹の血しおの 色にこそ知れ

【意訳】私に真心があるかどうか、これから切腹して腸を掻き出して見せるから、その血の色で解るだろう!

「見せてやれなくて残念だ!」切腹を覚悟していた忠崇(イメージ)

かつて新政府軍に降伏する時、死を覚悟して詠んだ辞世は、往時を知る者の涙を誘ったことでしょう。

終わりに

至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり
※『孟子』離婁上より

【意訳】いまだかつて「誠の心がありながら(心から感動したのに)、何も行動を起こさなかった」という者に、私(孟子)は出会ったことがない。

志のために地位も保身も擲(なげう)って戦い、その結果として永年の苦境を味わいながら、旧臣らの支えで御家再興を果たし、とうとう「最後の大名」となるまで生き残った林忠崇。

どこまでも純粋で、どこまでも不器用なその姿は、時流に乗って賢(さか)しらに立ち回る者からすれば愚か者にしか見えなかったでしょうが、七転八倒しながらも決して諦めなかったからこそ、旧臣らも心動かされたのでしょう。

「この人には、どうか幸せになって欲しい」

「こんなバカ正直で純粋な人が、報われないまま死んでいくなんて、絶対にいやだ!」

まさに至誠通天(しせいつうてん。誠の至りは天へと通ず)、みんなの想いで勝ち取った林忠崇の御家再興は、日本の輝ける精神的至宝と言っても過言ではないでしょう。

【完】

※参考文献:

河合敦『殿様は「明治」をどう生きたのか』扶桑社、2021年7月 中村彰彦『脱藩大名の戊辰戦争 上総請西藩主・林忠崇の生涯』中公新書、2000年9月

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