巨大化して大流行!古代日本を象徴する「古墳」は庶民のステータスとして変化していった? (3/4ページ)
津堂城山古墳は大阪府の古市古墳群の中でも最古のものです。これはそれまでの古い手法で墳丘が造られている一方で、周濠の堤に、新しいやり方で切り出された土が使われています。
その後、百舌鳥・古市古墳群では切り出し土が使われる例が増えていきます。
巨大な前方後円墳の嚆矢とされる箸墓古墳(はしはかこふん)が造られたのが3世紀中頃で、その後の百舌鳥・古市古墳群が登場するまではおよそ100年。この期間に土木技術が核心的な変化を遂げたことが分かります。
また、古墳の巨大化には、当時の国際情勢も大きく関係しています。
当時は東アジア情勢が激動しており、ヤマト政権と朝鮮半島の諸勢力は敵対したり接近したりを繰り返していました。
同時に、渡来人の活発な往来もありました。
こうした情勢を受けて情報交換が進み、五世紀末頃から、日本の古墳はそれまでの「長さ」重視から、当時の東アジアでの墳墓造りのスタンダードである「高さ」を重視する方向へと舵を切っていきます。
例えば、長崎県の壱岐をはじめとする各地では、この時期から高さを重視した古墳が増加しています。
壱岐は地理的に朝鮮半島に近いだけでなく、外交に従事した氏族もいたことから、彼らを通して新しい古墳の形態が伝わっていったのでしょう。
こうした変化を経つつ、古墳造りの文化は庶民にも広まっていきます。