新選組の天才剣士・沖田総司も参考にした?柳剛流を興した剣豪・岡田惣右衛門のエピソード (3/5ページ)
柳剛流は、薙刀の脛払い(脛を斬り払う攻撃)に着想を得たと思われる脛斬りと、飛び違い(相手とのすれ違い)際の斬撃を多用する点に特色があり、次々と相手の脛を斬って戦闘不能にしながら自分が前進していく実戦向きな剣術と言えるでしょう。
修得段階は切紙(きりがみ)、目録(もくろく)、そして免許とシンプルで、免許を受けると独立(分派を興すこと)が認められました。
多くの修行者は20代で免許を受けたため、各地で分派が生まれましたが、これは柳剛流の底が浅いのではなく、より実戦向きで合理的(シンプル)な技術が評価されたものと考えられます。
そんな実戦性が関東地方を中心に全国各地で流行し、惣右衛門は江戸神田のお玉が池、現代の東京都千代田区に道場を開きました。
万延元年(1860年)の『武術英名録』によれば、数々の剣豪を生み出したことで知られる北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)を超える門人を抱えていたと言いますから、人気≒実力のほどがうかがわれます。
やがて惣右衛門は高弟の一条信忠(いちじょう のぶただ。岡田信忠)に岡田姓を名乗らせて後継者とし、文政9年(1826年)9月24日に62歳で世を去ったのでした。
「敵は身体で斬れ!」沖田総司の指導さて、時は流れて沖田総司の「向こう受け反撃」。