男尊女卑が当たり前の江戸時代、数々の武勇伝を残した美人女伊達 「奴の小万」【後編】
前回までのあらすじ
浪速の豪商・木津屋の娘お雪は、教養にもまた柔術にも長けた少女でした。
16歳の四天王寺参りの時に物盗りの男二人を投げ飛ばしてしまいます。その噂は大阪中に広まりやがては芝居にまでなって“奴の小万”と呼ばれるようになります。
やがて家の商売を継いだお雪ですが“奴の小万”の影から逃れられずにいます。そんな時、大阪の一流の知識人である木村蒹葭堂という人物と知り合い、そのサロンの一員として活躍するようになります。
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男尊女卑が当たり前の江戸時代、数々の武勇伝を残した美人女伊達 「奴の小万」【前編】 男尊女卑が当たり前の江戸時代、数々の武勇伝を残した美人女伊達 「奴の小万」【中編】 三好正慶尼宝暦6年(1756)、28歳になったお雪は「女の家主は3年まで」いう法令に従って、番頭に店を譲ります。
そしてお雪はなんと剃髪して尼となり仏門にはいります。そして“三好正慶尼”と号して寺に寄宿しました。
のちにお雪は道頓堀川近くの難波村で知人の家を転々としながら暮らすようになります。そして遊所の芸妓たちに俳諧や和歌・筝などを教えていたようです。そのような暮らしを正慶尼は楽しんでいたようです。
その後“関白秀次二百年忌大追善”を天王寺の月江寺で営んだ際には、にわか雨で困っている参詣人たちを見た正慶尼が、雨傘1000本を買いに走らせ人々に配ったといいます。
こういうところにお雪(正慶尼)の困った人たちを見過ごせない、心根の優しさを見るのは筆者だけではないと思います。
三好正慶尼は徳川家に憚ることなく豊臣方の冥福をおおっぴらに祈り供養するなど、世間を大いに驚かせました。
その後、居を“月江庵”と名付け、その門に自分で用意した棺桶を立て掛けて、人を集めて宴をしたり、遺産金を全て京都大仏に喜捨するなど、大胆で何かを卓越した人であったようです。
三好正慶尼の晩年享和2年(1802)頃(文化2年西暦1805年という説も有)、年末も押し迫った大晦日の晩に、三好正慶尼は胸の不調を感じたといいます。そして除夜の鐘を聴きながら、
鳥鐘の声もをしまぬ年の丈
(夜明けを知らせる鳥や鐘の音も(聞けぬのが)惜しいとは思わぬ月日の長さよ)
という句を詠んで眠りにつきました。すると元旦の朝に目が覚めます。
未来かと思うや難波の初日影
(死後の世かと思ったが否(いな)難波の元旦の朝の光であった)
という句を詠んだといいます。
そして、
うしや世に又存命て何かせん 己が身ながら我に恥ずかし
という歌を絶筆として、数日後に波乱万丈の人生を終えて亡くなりました。
「奴の小万」の話は本人の意思とは別にして、人形浄瑠璃や歌舞伎、講談などで色々な脚色をされて今の世にまで残り続けています。
それは木津屋のお雪あるいは三好正慶尼の潔い生き方が時代を超えて人々に受け入れられ愛されている証なのだと思います。
(尚、句の意訳は筆者の未熟な解釈ですので、間違いがあればお知らせいただれば幸いです)
(完)
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