幕末の悲劇…討幕に貢献するも新政府に切り捨てられた相楽総三と赤報隊の末路 (2/3ページ)
こうして相楽総三らの活動は、江戸薩摩藩焼き討ち事件(江戸の薩摩藩邸に庄内藩の新徴組が報復襲撃した事件)に発展し、鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争の引き金となるのです。
西郷隆盛は、開戦に持ち込んだ相楽総三らの功績をたたえました。相楽総三はこれを機に赤報隊を結成し、討幕の旗頭になっていくのです。
相楽総三と赤報隊に起こった悲劇相楽総三らの働きによって、満を持して結成された赤報隊。彼らはなぜ切り捨てられることになってしまったのでしょう?赤報隊の軌跡から偽官軍にされた理由まで解説します。
赤報隊の軌跡赤報隊は、1番隊から3番隊での編成でした。1番隊は結成からのメンバーが中心、2番隊は元御陵衛士(元新撰組)が、3番隊は水口藩士や江州出身者が多い構成です。
戊辰戦争が始まると、赤報隊は新政府の命で「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を各地でふれまわりながら進軍していきました。「年貢半減」朝廷からの了解も得た布告でした。
「年貢半減」を各地でふれまわったのは、民衆の心を旧幕府軍から離れさせるための策でした。世直し一揆など旧幕府に反感を持つ民衆からも支持を得ることに成功します。
偽官軍にされた赤報隊赤報隊の進軍中に悲劇は起こりました。新政府が突如意見を翻し、「年貢半減」は赤報隊が勝手にふれ回っていることにしたのです。新政府は財政的に「年貢半減」は困難であることが最初からわかっていました。
そのため、証拠に残さないように文章も作成していません。新政府は密かに「年貢半減」を取り消していたのです。
更に赤報隊は、新政府からの命令を無視した進軍を行い、その独断・独立行動が新政府に危惧されるようになります。やがて「年貢半減」や独断行動の危惧によって、官軍の名の下沿道から略奪行為を行う「偽官軍」として汚名を着せられることになったのです。
赤報隊が進軍中に略奪行為が実際に多かったことも、小諸藩から反感を買っていました。新政府は自分たちを守るため、赤報隊を切り捨てたのです。