幕末の悲劇…討幕に貢献するも新政府に切り捨てられた相楽総三と赤報隊の末路
幕末は、倒幕のため志士たちがそれぞれの志をもって行動していた時代です。「相楽総三(さがらそうぞう)」も討幕に立ち上がった志士の一人。
尊王攘夷を掲げて戦果をあげた、相楽総三率いる赤報隊はなぜ新政府に切り捨てられたのでしょうか?今回は相楽総三の人物像と、赤報隊の悲劇について紹介します。
相楽総三の人物像と赤報隊結成相楽総三は本名を小島将満(こじままさみち)といい、小島家の四男として生まれます。四男でしたが、兄達が事故死したり養子に出たりして家督を相続しました。
文武両道で才能にあふれ、特に兵学に秀でていたといいます。私塾も開いていて、22歳のころには200人以上が相楽総三に教えを乞う程でした。
23歳の頃には、諸藩を遊歴して尊王攘夷に傾倒していきます。25歳の頃には小島家が裕福な郷士であったこともあり、親に5000両を与えられ義勇軍を作ることに尽力しました。
義勇軍は、天狗党の乱(幕府への強硬手段として、幕末に水戸藩内外の尊王攘夷派が起こした数々の争乱)などにも参戦しましたが失敗に終わります。
相楽総三らは、しばらく土佐藩士板垣退助(いたがきたいすけ)の手引きによって江戸に潜伏します。土佐藩と薩摩藩の間で同盟の密約がかわされた後、相楽総三ら勤王の志士たちは薩摩藩預かりとなるのです。
薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)の命を受け、相楽総三と勤王の志士達は暴行や掠奪、放火などの活動を行います。幕府を挑発して開戦に持ち込むためでした。
こうして相楽総三らの活動は、江戸薩摩藩焼き討ち事件(江戸の薩摩藩邸に庄内藩の新徴組が報復襲撃した事件)に発展し、鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争の引き金となるのです。
西郷隆盛は、開戦に持ち込んだ相楽総三らの功績をたたえました。相楽総三はこれを機に赤報隊を結成し、討幕の旗頭になっていくのです。
相楽総三と赤報隊に起こった悲劇相楽総三らの働きによって、満を持して結成された赤報隊。彼らはなぜ切り捨てられることになってしまったのでしょう?赤報隊の軌跡から偽官軍にされた理由まで解説します。
赤報隊の軌跡赤報隊は、1番隊から3番隊での編成でした。1番隊は結成からのメンバーが中心、2番隊は元御陵衛士(元新撰組)が、3番隊は水口藩士や江州出身者が多い構成です。
戊辰戦争が始まると、赤報隊は新政府の命で「旧幕府領の当年分、前年未納分の年貢半減」を各地でふれまわりながら進軍していきました。「年貢半減」朝廷からの了解も得た布告でした。
「年貢半減」を各地でふれまわったのは、民衆の心を旧幕府軍から離れさせるための策でした。世直し一揆など旧幕府に反感を持つ民衆からも支持を得ることに成功します。
偽官軍にされた赤報隊赤報隊の進軍中に悲劇は起こりました。新政府が突如意見を翻し、「年貢半減」は赤報隊が勝手にふれ回っていることにしたのです。新政府は財政的に「年貢半減」は困難であることが最初からわかっていました。
そのため、証拠に残さないように文章も作成していません。新政府は密かに「年貢半減」を取り消していたのです。
更に赤報隊は、新政府からの命令を無視した進軍を行い、その独断・独立行動が新政府に危惧されるようになります。やがて「年貢半減」や独断行動の危惧によって、官軍の名の下沿道から略奪行為を行う「偽官軍」として汚名を着せられることになったのです。
赤報隊が進軍中に略奪行為が実際に多かったことも、小諸藩から反感を買っていました。新政府は自分たちを守るため、赤報隊を切り捨てたのです。
相楽総三と赤報隊の末路赤報隊は新政府によって捕縛され、相楽総三ら8名の赤報隊幹部は下諏訪宿のはずれで処刑されます。相楽総三、享年30歳。妻もこの訃報を聞き、後追い自殺をしました。
赤報隊の1番隊はメインメンバーが多かったため処刑されたものが多く、3番隊も略奪行為が目立ち処刑されたものが多数いました。2番隊は新政府に従軍、京都に戻り徴兵7番隊に編入。
相総三の孫である木村亀太郎が赤報隊関係者と共に奔走し、昭和に入ってようやく多く隊員の名誉が回復されました。
まとめ今回は、相楽総三と赤報隊について紹介しました。討幕のために薩摩藩や新政府の命を遂行したにも関わらず、最後は邪魔になって新政府に切り捨てられた相楽総三と赤報隊。
新政府軍として戦った側にも、まるでトカゲの尻尾切りのような出来事があったのです。
トップ画像:相楽総三の家族。総三の死後。
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