幕末の悲劇…討幕に貢献するも新政府に切り捨てられた相楽総三と赤報隊の末路 (1/3ページ)
幕末は、倒幕のため志士たちがそれぞれの志をもって行動していた時代です。「相楽総三(さがらそうぞう)」も討幕に立ち上がった志士の一人。
尊王攘夷を掲げて戦果をあげた、相楽総三率いる赤報隊はなぜ新政府に切り捨てられたのでしょうか?今回は相楽総三の人物像と、赤報隊の悲劇について紹介します。
相楽総三の人物像と赤報隊結成相楽総三は本名を小島将満(こじままさみち)といい、小島家の四男として生まれます。四男でしたが、兄達が事故死したり養子に出たりして家督を相続しました。
文武両道で才能にあふれ、特に兵学に秀でていたといいます。私塾も開いていて、22歳のころには200人以上が相楽総三に教えを乞う程でした。
23歳の頃には、諸藩を遊歴して尊王攘夷に傾倒していきます。25歳の頃には小島家が裕福な郷士であったこともあり、親に5000両を与えられ義勇軍を作ることに尽力しました。
義勇軍は、天狗党の乱(幕府への強硬手段として、幕末に水戸藩内外の尊王攘夷派が起こした数々の争乱)などにも参戦しましたが失敗に終わります。
相楽総三らは、しばらく土佐藩士板垣退助(いたがきたいすけ)の手引きによって江戸に潜伏します。土佐藩と薩摩藩の間で同盟の密約がかわされた後、相楽総三ら勤王の志士たちは薩摩藩預かりとなるのです。
薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)の命を受け、相楽総三と勤王の志士達は暴行や掠奪、放火などの活動を行います。幕府を挑発して開戦に持ち込むためでした。