総大将は16歳の少年キリシタン。悲しき運命に翻弄された「天草四郎」の実像【前編】

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総大将は16歳の少年キリシタン。悲しき運命に翻弄された「天草四郎」の実像【前編】

天草四郎(あまくさしろう)という名前は、みなさんも一度は耳にしたことがあるでしょう。歴史の教科書や映画・小説・マンガなど多方面で取り上げられています。しかしたった16年という短い生涯だった彼の正体は、多くの謎に包まれているのです。

今回は、数々の伝説や噂が残る天草四郎の実像について紹介します。

芝田美術館所蔵 天草四郎時貞像 (1991年の普賢岳噴火災害で焼失)

芝田美術館所蔵 天草四郎時貞像

天草四郎とは一体どんな人物?

江戸時代、長崎でキリシタンや虐げられた領民による一揆『島原の乱』が起こります。

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その時、突如歴史の表舞台に登場した16歳の少年が天草四郎。謎に包まれた彼の人物像や容姿、伝説について紹介します。

人物像

天草四郎は通称で、本名は益田四郎時貞(ますだしろうときさだ)。父は小西行長(キリシタン大名で関ケ原の戦いで斬首)の家臣でした。学問のため、何度か父に連れられて訪れた長崎でキリシタンとなります。洗礼名は「ジェロニモ」でした。しかし、一時キリシタンであることを捨てたと見せかけた時期もあったため「フランシスコ」に変化しています。

天草四郎は、少年ながら人の上に立つ器を兼ね備えていました。恵まれた家庭に育ち、教養があったばかりでなく、突出したカリスマ性を持ち合わせていたと言われています。

さらに、天草四郎は、「予言の子」と呼ばれていました。生まれた時から特別視されていたのです。江戸時代キリシタン弾圧が激しくなる中、宣教師ママスコが天草地方から追放される際に言い残したことがあります。「16歳の少年がキリスト教の教えを信仰する者たちを救う」というものでした。それがまさに天草四郎と一致したのです。

「予言の子」であり、教養があってカリスマ性のある少年「天草四郎」。周りの大人たちから見ても、天草四郎は人を引き付ける魅力にあふれた少年に映っていたのでしょう。

天草四郎の容姿

天草四郎像

天草四郎を美少年に描いたイラストや書物は少なくありません。しかし、写真などが残っているはずもありません。肖像画も後世にキリシタンの少年使節団などを真似て描かれたものです。口述などでも天草四郎の容姿についての記載はほとんどありません。後世で書かれた小説などの創作物によって、美少年像が形成されていったのです。

天草四郎の容姿についての実際の記録は「頬先に水ぼうそうの跡があった」程度です。天然痘を患った跡があるといった記録もあります。元々美少年であったかは定かではありません。おそらく病気の跡を化粧で隠し、予言の子として周りに作り上げられていったのでしょう。

天草四郎が残した伝説

『島原の乱』で領民側の生存者が、天草四郎について語った話が伝説となって残っています。

盲目の少女に触れただけで目が見えるようになった。 スズメが止まっている枝を飛び立たせることなく折ってみせた 海の上を歩いて渡った。 手に止まった小鳥が生んだ卵から聖書がでてきた。

信じがたい話ですが、これはキリストが起こした奇跡とほぼ同じでした。少年を神格化するために作られた逸話とも言われています。伝説は、「予言の子」のエピソードや持って生まれたカリスマ性が下地となり、キリシタンや領民に真実として信じられたのです。

まとめ

前編では、天草四郎の人物像や伝説について紹介しました。人の上に立つ器があり周囲の大人たちによって神格化された16歳の少年は、悲しい運命を辿っていくこととなるのです。

後編では天草四郎が総大将になった『島原の乱』や彼にささやかれた噂について解説します。

後編はこちら

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