優れた血統を残し、劣った血統をなくす。世界を動かした「優生学」の正体とは (2/3ページ)
■「優生学」は国際的な運動だった
優生学の広がりは西洋諸国に留まらないということは前述した通りだ。著者が「優生学のとりわけ興味深い特徴の一つは、ほぼ全世界を引きつけたこと」(p.24より)と述べているように、この思想は世界で注目を集めた。
移民の割合が高い英語圏の国々では、優生学は人種による移民制限の手段となり、知能が注目されるようになった。インドや香港のように、全体的な人口の増加を抑えたがっていた場所では、優生学はほぼ産児制限(避妊)に主眼が置かれていた。また、スウェーデンでは、精神障害者の強制断種が、妊婦健診や奨励金、児童福祉といった手厚い社会福祉と共存していたという。
とりわけ優生学が顕著な役割を果たしたのは、新たに独立したばかりの国々であった。オスマン帝国やハプスブルク帝国が第一次世界大戦後に崩壊すると、その後に独立した国々では、優生学的改良で自国民の健康を向上させることで、国際的な地位を高められるのではないかと考えられたのだ。
また、優生学といえばナチズムを思い起こす人も多いだろうが、優生学とナチズムを混同するのは誤解だと著者は指摘している。ナチスがみずからの目的をなしとげるために優生学と結びついたのは確かだが、彼らが行ったことは優生学のはるか射程外に及んでおり、当時ナチスではない優生学者たちは不安げに距離を置いていたという。
■第二次大戦後、「優生学」はどうなったのか1945年以降の優生学の立ち位置を決定づけたのは、1945年から49年にかけて行われたニュルンベルク裁判といえるだろう。ここでナチスの軍人や実業家、法律家、医師たちが裁かれ、優生学はナチズムと結びついたイメージとなった。
一方、優生学者たちは、ナチスに利用されて失墜した名誉を回復すべきだと考え、その概念や原理は滅びることなく、むしろつくりなおされ、言い換えられた。
1950年代から1960年代にかけては、地球全体の人口抑制が新たに政治的関心を集めた。たとえばアメリカでは公共や民間の金が産児制限の計画や研究につぎこまれ、1966年にはインドの首相となったインディラ・ガンジーが、600万人への避妊具(IUD)の挿入と、123万人への断種を行うことを、家族計画の目標に据えた。